中国武術は現代の漢民族や回族などの中華民族が歴史と価値観の中で育んだ技術体系及び芸道です。本日は、中国武術の歴史の概説を解説します。
春秋~戦国~五代十国
中国武術の歴史は、中原の戦争の歴史であると言っても過言ではない。春秋戦国時代の武技については当時の文献から断片的な情報を組み合わせ想像するしかないが、春秋戦国の諸侯が中原の覇を争い戦争に明け暮れて時代に於いては武術は盛んであったと考えるべきであろう。
「斉人隆武術」(斉人は武術に優れる)、「六藝」(孔子の提唱する大夫が修めるべき修養)に御と射が含まれており、兵学が重視されていたことがわかる。中国古代の官吏の正装には冠、剣が含まれており、「做文事者必有武備」(文を做す者は必ず武備有り)という様に戦国から唐代にかけ、文官にも武備を行う習慣があった。
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宋~元~明~清
五代十国の混乱を制し、中原を再統一した宋王朝では、軍閥勢力を抑えるため、軍を中央に集約しそれを皇帝直属とし、科挙に合格した文人官僚にそれを統率させた。このように文民統制を採っていた宋では、「好鉄不打釘、好人不当兵」(良い鉄は釘にならない。まともな人間は軍隊に入らない)という風潮が蔓延し、軍隊は次第に弱体化していった。
また、中華文明は文化を重視し「文章は経国の大事なり」として、武技を抑制する風潮に拍車がかかっていく。漢民族は、中華世界の中心に君臨し、優れた文化と文字を持ち、武力で物事を解決しないことを誇りにしていた。
宋代以降の王朝は民間の武を抑える政策を取り、市井には重文軽武の風潮が流れた。だが、北虜南倭(北方の騎馬民族の侵攻、南方の沿岸部の倭寇の略奪)に備えるため、代々の王朝も軍隊、武術を完全に排除することはできず、武術は軍事技術として後代に受け継がれた。
優勢な武力で中華を征服し清王朝を打ち立てた満州族は、数に勝る漢民族を支配するため武力を保持しようと努めた。だが、彼らも歴代の北方異民族と同じく、漢民族の文明に感化され、次第に牙をそがれてしまう。
20世紀に入り、度重なる欧米列強からの侵略と腐敗した政治より、満州族は内外からの軋轢を抑えることができなくなっていた。世界はすでに火器と近代戦術の時代であり、八騎軍を基幹とする騎兵戦術、刀槍中心の兵法はすでに近代兵器に対抗することはできなかった。弱体化した満州人は漢民族からの滅清興漢(満州人を放逐し、漢民族の王朝を復活する)の波を抑える力をもはや持っていなかった。
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近代中国
辛亥革命後、1911年に東方世界最初の共和制国家として成立した中華民国であったが、その実態は地方軍閥の連合体であった。中央政府の政治基盤が弱く、軍閥が依然として割拠していた。
各地方では、清朝から地盤を継承した郷紳が引き続き地域を支配するという状態であった。その中で民間の伝統武術も継承された。特に警察力の届かない辺境では武術の需要はことのほか大きく、農村や地元の有力者は保衛団を組織し、自力で財産と家族を土匪から守らなければばらなかった。
欧米列強の半植民地化を乗り越え、日本帝国との泥沼の戦争に勝利した国民政府であったが、抗日戦争中から勢力を伸ばした中国共産党との内戦にて数々の会戦において大敗北を喫する。1949年には台湾島と福建省、浙江省の一部の諸島を除き、中国大陸から撤退した。
中国共産党による統治を嫌った官僚、軍閥、軍人、地主、商工業者やその家族は、国民政府とともに台湾島に渡った。その中には多くの武術家も含まれていた。
朝鮮半島と同じく台湾海峡でも戦線が膠着し、台湾海峡は共産主義、自由主義陣営の境界線分ける「竹のカーテン」と揶揄されるように、中国共産党が主導する大陸の新中国と、台湾の国民政府が主導する中華民国が、お互いが唯一の中国を代表する正当な国家としての地位を争うという冷戦を代表する分断国家となった。
台湾国民政府時代
台湾に渡った武術家たちは、ある者は大陸で学んだ武術を自分の楽しみとし、あるものは、武術を生活の糧として第2の人生を歩み始めた。国共内戦のさなか、台湾に渡った武術家の多くは、大陸沿岸部の出身であった。彼らは台湾島での仮住まいの中で国民政府の大陸反攻に夢を託し、再び故郷に帰る日を思いながら日々の生活に埋没していった。
彼らは故郷の生活様式を台湾に持ち込み、それを頑なに守り続けた。だがその中でも中国の伝統文化である中国武術を保存しようと願う者達も多く、彼らは生活の傍ら、武術を後代に伝えるべく活動した。大陸から武術家は、中央国術館出身、青島国術館出身が比較的多く、河北省、山東省の拳種が多くを占めることが特徴である。
これは、国共内戦時、沿岸部から台湾への脱出が比較的容易であったことが理由とされるが、山東人が多くを占める理由は、青島市が比較的後期まで国民政府の勢力圏であったことも理由の一つであると考えられる。
台湾への脱出が困難であった内陸部、早期に共産党の勢力圏に取り込まれた東北部の武術伝承が少ないことは、台湾の北派武術の特徴である。また、大陸出身者の多くは、基地近郊の眷村、または台北市、基隆市、高雄市などの都市部に移住したことにより、伝承が都市部に偏っている傾向がみられる。