皆さんは南京中央国術館という武術教育機関をご存知でしょうか。中国武術に興味を持っている方には名前を目にしたこともある方も多いと思います。
南京中央国術館とは第二次世界大戦に以前に中華民国の首都南京に存在した国術(中国武術)の研究と武術家の養成のために国民政府が設立した中国武術の最高機関です。
今回は中国武術の研究、普及と武術家の養成のために設立された南京中央国術館について解説します。
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目次
中央国術館とは
中央国術館は中華民国国民政府が南京に設立した武術研究、教育機関です。中国の歴史上初めて組織的に武術を研究するための学術機関として南京市西華門頭條巷6号にて設立されました。
中央国術館は教育部が管轄する正規の学術部門ではないため中央国術館内の教育体制は教育部の規範とは完全に異なり、独自の体系で運営されていました。
中央国術館の設立
中央国術館は1928年に中央国術研究館という名称で南京にて設立されました。1928年6月には中央国術研究館は中央国術館に改称され、本格的な活動を始めました。
中央国術館は初代館長を張之江、副館長は李景林将軍として発足しました。それぞれは西北軍閥と東北軍閥の出身です。
当時の中華民国は西洋文明を積極的に取り入れようとしていた時代でした。教育部は武術は教育するべきにあらずとして、当初張之江が提出した諸々の申請を却下します。
その後国民政府の常務委員である李烈鈞の協力により、最終的に国民政府主席の蒋介石の同意を得て中央国術館の成立が承認されました。
中央国術館設立の目的と創設理念
中央国術館の設立は、武術指導者の育成、武術の普及、武術教材の編纂、門派毎の保守的体質の打開、武術と徳育の併修、文武兼修の人材育成などの目的が掲げられて行われました。
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中央国術館の館訓
中央国術館には以下のような館訓があります。
- 術德並重(技術と道徳双方の重視)
- 文武兼修(文と武の併修)
- 強種救国(国民の体力強化と救国)
- 禦侮図存(侮蔑からの防御と版図の存続)
中央国術館の組織構成
中央国術館の組織構成は以下の通りです。中央国術館の組織構成は初期と後期では構成が異なりますので分けて解説します。
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中央国術館の組織構成
南京中央国術館の構成は以下の通りです。
開館初期の組織構成
- 館長 :張之江
- 副館長 :李景林
- 顧問 :張洪之
- 理事長 : 李烈鈞、戴季陶
- 名誉館長: 馮玉祥
後期の組織構成
- 館長 :張之江
- 副館長:李景林
張驤伍
鈕永健
張樹聲
陳泮嶺 - 顧問 :張洪之
- 教務処:馬良、呉俊山、孫玉銘、郝鴻昌
- 編審処:唐豪、姜容樵 黄柏年
- 審編員:金一明、胥以謙
- 総務処:李滋茂、朱家驊
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中央国術館の科目
中央国術館は初期には小林門と武当門のという二種の教科が設定されていました。小林門とはいわゆる外家拳全般をいい、武当門は太極拳、形意拳、八卦掌を中心とするいわゆる内家拳を指します。
少林門
- 少林門門長:王子平
- 科長 :馬英図、馬裕甫
- 教授内容 :少林拳、八極拳、劈掛拳、査拳、弾腿
外家拳全般をいい、武当門は太極拳、形意拳、八卦掌を中心とするいわゆる内家拳を指します。
武当門
- 武當門門長:高振東
- 科長 :柳印虎
- 教授内容 :太極拳、形意拳、八卦掌
しばらくして少林門、武当門という科目区分は廃止されました。
中央国術館のクラス
中央国術館には以下のようなクラスが設けられていました。
練習班
練習班は国術館のある地元の学生が通うクラスです。学費無料、食事や宿泊は各自で賄うこととなっていました。成績優秀者は教授班に編入できました。
少年班
少年班は10歳から14歳の年齢の小学校を卒業した少年が所属する期間は2年です。
青年班
青年班は中学校を卒業した17歳から20歳の青年に対するクラスです。期間は3年となります。
教授班
教授班は1928年に制定されたクラスでした。初期の学制は比較的臨機応変であり、当時の学生の成績や社会の要求により予定年数より早く卒業していきました。
卒業後はすぐに後任の指導に当たる教師となりました。1929年には教授班は2年制となり、1930年には3年制となりました。
師範班
師範班は1933年に設立されたクラスです。師範班は甲と乙班に分かれ募集が行われ、甲班は一年制、毎期66人の募集していました。乙班は二年制で毎期54名を募集していました。
師範班は15歳から20歲以下の国民で武術経験がある人材を募集するクラスです。入学には高等小学校からそれと同等の学歴が求められました。
中央国術館の学科と術科
中央国術館の学科と術科には以下のようなものが設定されていました。
学科
中央国術館では以下の学科が指導されていました。
- 党義
- 国文
- 地理
- 歴史
- 算術
- 国源流
- 国術学
- 生理学
- 軍事学
- 音楽
中央国術館は、幅広い学問に精通するという観念のもと武術の技術に関する授業を展開するものでした。万能な武術人材となる人物を育成するようカリキュラムが組まれ、それがその後の武術の発展に寄与するものとなりました。
術科
術科における主要な課程は以下のようなものでした。
- 腿法
- 拳術
- 器械科
- 競技科
- 選修科
- 特别科
- 軍事科
また術科には形意拳、太極拳、八卦掌、査拳、八極拳や劈卦拳等の拳術や棍、刀、槍、剣という四大兵器、軟兵器や気功、外功や散打、摔角、兵器での格闘、ボクシングなどもカリキュラムに含まれていました。
全国国術考試
国術国考、国考ともいわれる全国国術考試は正式な国術考試(試験)でした。全国国術考試は1928年と1933年に開催されただけに終わりましたが、中国全土から武術家が参加しました。
預試として套路の演武が、そして正試として体重無差別の対打試合が行われました。試合では参加者に負傷者が出たため対打試合は中止されました。
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中央国術館旗下の組織
中央国術館には以下の旗下組織がありました。
- 中央国術館体育専門学校
- 中央国術館小学校
- 中央国術体育研究会
また首都南京にある中央国術館を筆頭として、省市級国術館、そして県級国術館が連携を持っていました。
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中央国術館の教師陣営
中央国術館の教師陣営には以下のような人物が教鞭をふるっていました。
- 李景林
- 孫玉銘
- 馬良
- 馬金標
- 馬永勝
- 馬慶雲
- 呉俊山
- 呉民清
- 呉異輝
- 嚴乃康
- 陳子明
- 高振東
- 朱国福
- 黄柏年
- 于振聲
- 郭長生
- 郝鴻昌
- 張驤伍
- 徐宝林
- 李玉山
- 畢鳳亭
- 劉鴻慶
- 龔潤田
- 李元智
- 王子平(少林門門長、査拳・滑拳)
- 呉翼輝(華嶽希夷門、六合八法拳)
- 馬英図(八極門門長、劈掛拳)
- 韓化臣(八極拳)
- 張玉衛(八極拳)
- 陳照丕(陳家太極拳)
- 陳子明(陳家太極拳)
- 顧汝章(少林拳・鉄砂掌功)
- 常東昇(摔角)
- 呉志青(摔角)
- 陳泮嶺(後の副館長、双辺太極拳、形意拳、八卦掌)
- 孫禄堂(武当門門長に就任。孫式太極拳、形意拳、八卦掌)
- 楊澄甫(武当門門長。永年楊家太極拳三世)
- 唐豪(武術史研究家、六合拳)
- 黄柏年(形意拳、八卦掌)
- 姜容樵(形意拳、八卦掌、秘宗拳)
- 孫錫坤(八卦掌)
- 金一明
中央国術館の刊行物
中央国術館の刊行物には以下のようなものがあります。
定期刊行物
- 国術旬刊
- 国術周刊
- 国術季刊
- 国術特刊 など。
条例と法規類
- 国術館考絛例
- 中央国術館組織大綱
- 省、市国術館組織大綱
- 県国術館組織大綱
専門書類
- 少林武當考
- 査拳図説
- 達磨剣
- 青萍剣図説
- 君子剣
- 太行拳術
- 少林拳
- 三十二勢長拳
- 石頭拳術秘訣
- 写真太師虎尾鞭
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中央国術館のその後
1937年、日本軍の南京爆撃に合わせて中央国術館は湖南省の長沙にある杜家山中学に移転しました。それからは広西省の桂林や雲南省の昆明等を転々とし、1941年には四川の重慶に落ち着きました。
その過程で政府からの公費支出は停止したため、教職員や学生は生活が困難になり、そのため多くが中央国術館を離れていきました。
その後は四川省内にて巡回演武等を行っていましたが往時の規模と勢いを失いました。抗日戦争終結後、1946には中央国術館は国都南京に戻りましたが、経費の欠乏により活動を維持することはできず、1948年には中央国術館は解散しました。
1949年に南京国民政府は台北を臨時首都として台湾島とその周辺の島嶼部、福建省や浙江省、および海南島に押し出されました。この移転に伴い、多くの国民党員や中央国術館の教師陣、学生、関係者が台湾地区に移住しました。
国民政府が台湾に移転した後、副館長で中国国民党の幹部であった陳泮嶺が中央国術館を復興しようとしましたが実現はしませんでした。しかし中央国術館の精神は台湾地区にも受け継がれ、1983年には中国文化大学の体育系に国術組が創設され、1997年には国術学系として一学部となりました。
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中央国術館の評価
中央国術館は中国武術の発展と普及において重要な貢献を果たしたことは間違いありません。中華文明は「重文軽武」の気風があり、尚武の気風が残る北朝やそれに連なる宋朝においてもこの傾向は顕著でした。
その中で、武術を発揚し、これを中国文化の文化財として保存し、軍事力強化に寄与することをを目的として活動したことは一定の意義があります。
中央国術館が南京で活動していたころの中華民国は政治的、外交的に不安定な時期であり、抗日戦争、国共内戦という外因に振り回され、同時に西洋文明の挑戦をあり、惜しくも経費不足のため閉鎖に追い込まれてしまいましたが、武術指導者の育成、武術の発揚などの理念は今日にも受け継がれています。
中央国術館の著名な関係者
中央国術館の著名な関係者としては以下の人物が挙げられます。
張之江
河北省塩山県出身で馮玉祥の国民軍旅長や代総司令等を歴任。
李景林
直隷省出身で奉天派の軍人。国民政府軍事委員会委員。
張驤伍
河北冀県出身の軍人。北洋軍に所属しのちに東北に駐在、後に李景林に屬す。武当剣法、武当太極拳、昆吾剣の伝人。
鈕永健
江蘇省上海県出身。軍事関係で日本とドイツに留学。參謀本部参謀副長、国民政府秘書長等を歴任。
陳泮嶺
河南省出身。北京大学卒業。国民政府の要職を歴任、台湾で逢甲工商学院の院長。
王子平
河北省滄州出身。回族、查拳や各種北派武術に優れる。医者にして「千斤大力王」の異名を持つ。全国政協委員、中国武術協會副主席等を歴任。
馬英図
河北省滄州出身。回族、通臂拳、劈掛拳、八極拳に長じる。奉天警官学校に学び、馮玉祥旗下で參謀等を務める。少林門科長。
高振東
河北省出身。形意拳に優れる。二十歳にして義和団に参加。呉佩季軍では武術総教官を務める。武當門門長を歴任。
柳印虎
河北省出身。形意拳、八卦掌、太極拳を修める。武當門科長。
韓慶堂
擒拿術に優れ、第一期の最優秀成績者の一人、武状元の称号を持ち、台湾で中央警察学校や台湾省員警学校で技術教官を歴任。
范之孝
第四期卒業生、卒業は留任し教授に当たる。台湾に移転後、員警学校の国術教官や憲兵学校の摔角教官を歴任。
常東昇
回族、保定快角に優れ「花蝴蝶」の異名を持つ。陸軍軍官学校や1949年以降は中央警官学校で国術教官を歴任。
張英健
回族、冠県出身。査拳に優れ1928年の国考では5位の成績。台湾に転居後は屏東空軍幼校教官や総統府侍衛を歴任。
李元智
河北省滄州城出身。八極拳に長じ、1928年の国考では最優等となる。漢口軍官学校の教官に任官後台湾へ。陸軍軍官学校教官を歴任。
潘文斗
山東省出身。南京中央国術館を卒業後、南京憲兵訓練所にて摔角を指導、1950年に台湾に転居しその後は憲兵学校にて教鞭をとる。
佟忠義
河北省滄州出身。満族。家伝の長搏擊と摔跤に優れる。京城巡捕営武術総教頭や保定陸軍軍官学校教官を歴任。
郭長生
河北省滄州市出身、劈掛、通臂と苗刀等に優れる。中華民国大総統曹錕の護衛、国民政府外交部の武術教官を務める。劈掛拳と苗刀の発展に貢献。
張英振
山東省冠県出身。回族。査拳に優れる。1928年の国術大考では最優等となる。黄埔軍官学校国術教官。新中国成立後は査拳の研究に人生を捧げる。
韓化臣
河北省滄州出身。八極門の第五代大師。八極、劈掛を修める。黄四海や李書文とも交流を持つ。滄州の武術発展に貢献。
陳照丕
河南省温県出身。親族より陳氏太極拳を学ぶ。中央国術館の名誉教授。抗日戦争では範庭蘭の部隊で大刀術を指導。
陳子明
河南省温県出身。沁陽市の国術団体にて太極拳を教授。
顧汝章
江蘇省阜寧出身。鉄砂掌に精通する。1924年の国術では最優秀となる。兩広国術館、梧州国術社、広州国術社等で武術を指導。総部軍校では国術の総教官となる。
孫禄堂
祖籍は河北保定市。内家拳を統合し孫家拳を創設。蒲陽拳社を創設し広く門徒を集める。中央国術館の武当門長、江蘇省国術館副館長と教務長を歴任。
楊澄甫
北京市出身。家伝の太極拳を継承。中央国術館の武当門(太極門)長を歴任。楊氏太極拳を広く普及させる。浙江省国術館でも教鞭をとる。
姜容樵
河北省滄州出身。曾祖父は秘宗拳の名手。形意拳、八卦掌、秘宗拳に優れ文武に通じる。上海尚武進德会を創設。中央国術館の編纂処処長を歴任。
朱国福
河北省定興県出身。形意拳や鐵砂掌に優れる。1928年の国考で最優等となり、中央国術館では教務処長を歴任。後に重慶大学などで指導。ボクシングの普及に貢献。
傅振嵩
河南省泌陽県出身。陳式太極拳、八卦掌に優れる。奉天派軍閥では武術連連長、衛隊長を歴任。両広国術館でも武術を指導。
馬承智
安徽省霍邱県出身。北派少林拳、八極拳や摔跤に優れる。武当門長李景林に師事。江蘇国術館で武術を指導。馮玉祥下の抗日大刀隊で武術教官となる。
馬金鏢
山東省済南出身。洪拳、查拳を学ぶ。南京中央大学体育系、中央国術館、金陵大学、金陵女子中学校等等で武術を指導。
王子慶
河北省出身。北少林拳、形意拳、八卦掌に優れる。中央国術館で教鞭を振るう。
楊松山
山東省済南市出身。查拳、華拳、洪拳、形意拳に優れる。中央国術館教務長。1928年の国考では最優等獎を受賞。黄埔軍官学校国術総教官を歴任。
楊法武
山東省済南市出身。回族。硬気功、中国摔跤に優れる。中央国術館にて武術を指導。1930年には日本で柔道、剣道をを視察。
胥以謙
江蘇省通州出身。多数の武術教材を執筆、新中国では1959年に江蘇省第五回人民運動会では武術裁判を歴任。
何福生
河南省南陽出身。回族。査拳に長ずる。第一回国考で優秀獎を受賞。中央国術館教務處副処長兼学生隊隊長。体育運動三等栄誉賞受賞。国家級審判。新中国で武術普及に多大な貢献。
康紹遠
天津市出身。査拳、太祖拳を学ぶ。国立国術体育専科学校、東北師範大学体育学院等で武術を指導、武術大会の審判長を歴任。多数の武術の普及に関する称号を受賞。
以下は1936年のベルリンオリンピックにて演武した中央国術館の団員
- 温敬銘(後に武漢体育学院教授)
- 張文広(査拳、摔角等。後に北京体育学院教授)
- 鄭懐賢(孫禄堂の門弟。内家拳、擒拿)
- 劉玉華(双刀、査拳。武漢体育学院教授)
- 傅淑雲(天津出身。綿拳や各種門派。後に台湾に移住)
- 金石生(少摩拳、少摩刀)
- 寇運興
- 張爾鼎
- 翟漣源
南京中央国術館のまとめ
今回は中華民国に存在した中国武術の研究と普及発展及び武術家の育成を目的として設立された南京中央国術館について解説しました。
中央国術館は全国各地から高名な武術家を招聘し武術専門人材を育成しただけではなく、資料の編纂、刊行物の発行など中国武術の普及と発展に多大な貢献を果たしました。
中央国術館は抗日戦争による南京陥落と重慶への移転、そして国共内戦期による政策転換により閉鎖を余儀なくされましたが、中央国術館で学んだ英才たちは、大陸地区、台湾地区の双方で軍警関係の諸機関や体育大学などの教育機関で指導を行い、第二次大戦後の伝統武術の発展に大きく寄与しました。
皆さんが学んでいる老師の系譜にも南京中央国術館関係者の方が含まれているかもしれません。私の直接の師は南京中央国術館の卒業生ではありませんが、私の友人の祖父は南京中央国術館の第一期を最優等で卒業しています。また私の師爺の友人にも中央国術館出身者が含まれています。
南京中央国術館の存在は近代の中国武術史において外すことができない要素の一つです。これを機会に近代中国の中国武術の普及と発展の歴史について考えてみてはいかがでしょうか。
このブログが皆様の中国武術研究の参考になれば幸いです。