小日向白朗は、「中国全土の馬賊」の総頭目にまで上り詰めた日本人馬賊です。本日は小日向白朗(こひなた はくろう)という人物について解説します。
目次
小日向白朗とは
小日向白朗は1900年(明治33年)1月31日に新潟県で生まれました。17歳で単身中国大陸に渡り、後に全中国の馬賊の総攬把(総頭目)となった人物です。本名は健松であり、中国名は邵日祥、尚旭東。大陸の民衆からは小白竜とも呼ばれていました。
馬賊とは
小日向白朗の生涯を説明する前に、馬賊について説明する必要があります。馬賊とは馬の機動力を生かし清末から満洲国期に満洲周辺で活動していた賊のことを言います。もともとは、農村が自衛のために組織した保衛団であり、その中の遊撃隊でした。
当時の東北部は清朝の衰退により治安が悪化していたため、このような自衛組織が必要となったのでしょう。後に奉天軍閥を組織し関東軍に暗殺された張作霖、満州国総理の張景恵も出自を馬賊に持ちます。
小日向白朗 経歴概略
小日向白朗は、シベリア単騎横断で有名な福島安正中佐に憧れ、中国大陸、チベットを調査しつつ、ドイツを目指そうと17歳に大陸に渡り、その後、関東軍の坂西利八郎大佐に気に入られ、2年間中国語、射撃等の訓練に励みました。
20歳でモンゴルのウランバートルを目指す旅に出ましたが、その途中、馬賊に襲われ捕虜となり、命と引き替えに馬賊の下働きとなります。彼は父親を邵姓の中国人と偽り、父親を探す日本人混血児とし、馬賊頭目の楊青山の一員に加わることで死をま逃れました。
戦闘で頭角を現し、攬把となる
小日向白朗は、後武芸に精通し、馬賊として数々の戦闘で成果を上げる事により頭角を現していきます。楊青山が死んだあと、彼は楊青山の部隊を引き継ぎ、華北馬賊の頭目(攬把)の一人となります。
拉致された英国人少女を救出
遼寧省営口にて身代金目当てに英国人少女が拉致された事件があり、犯人が「北覇天」という山賊であることを突き止め、老人二人と少年の付き人と自分だけで敵陣に乗り込み、英国人少女を救出するとしたという逸話も残っています。
千山無量観で武当派拳術の修行を行う
彼はまた、馬賊の聖地である遼寧省の千山無量観で道教と武当派拳術の修行を積んでいます。中国大陸の政変前に中国武術を学んだ数少ない日本人の一人です。
南満州の馬賊の総頭目(総攬把)へ
そこで、無量観大長老の葛月潭老師より「尚旭東」の名と破魔の銃「小白竜」を授かっています。この瞬間、小日向白朗は中国全土の馬賊の総頭目となったとされます。
大本の出口王仁三郎と植芝盛平を救う
小日向白朗は、「大本」の出口王仁三郎や植芝盛平一団がモンゴル入り後に張作霖に捕らえられた際、釈放にも奔走しています。
青幫「通」字輩の高級幹部となる
1935年小日向白朗は、関東軍の命令で天津にて青幫(海運業者を中心とした中国の秘密結社、現在も台湾で一定の影響力を有する)に加入しています。青幫では「通」字輩の高級幹部となっています。
蒋介石や国民政府幹部に青幫の構成員が多くいることは有名な話ですが、日本人で青幫の高級幹部となっているのは私の知る限り、小日向白朗一人です。彼は積極的に河北五省の自治を推進し、後に上海に活動拠点を移しています。
国民政府軍に逮捕されるも釈放
特務機関の役割を担って活動拠点を南満から天津や上海で活動していましたが、無錫の前洲の別荘にて国民政府軍に逮捕され、漢奸罪で起訴されるも、彼は日本国籍を有していることが確認できたため免訴となり台湾を経由し1950年に日本に帰国しています。
日本帰国後の活動
日本に帰国後は、金銭的には決して恵まれた生活を送っていたわけではありませんでしたが、多くの華僑から絶大な信頼を集めており、援助を受けていたとされます。また、
- 1970年代の米中国交回復に暗躍した
- 日中国交回復の際、中華人民共和国との橋渡しを行った
- 蒋介石を日本に招いて住めるよう伊豆の別荘計画を練っていた
との伝説も残されています。
小日向白朗の最後
1982年、東京都新宿区にて死去しています。
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小日向白朗が学んだ武当派拳術の謎
小日向白朗が千山無量観で学んだ武当派拳術についての詳しい内容は謎とされています。場所が遼寧省であり、遼寧省は、河北と膠東半島からの移民が大半を占めるため、武術は通背拳か、八卦掌のどちらかと推測できます。特に八卦掌は道士の修行法と重複する内容が多く、今後の研究が待たれます。
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小白竜の行方
柄の象牙に龍が彫られた特注ブローニング「小白竜」。この銃の行方は分かっていません。川島芳子が最後に持っていた銃がこの「小白竜」であったという噂があります。
まとめ
小日向白朗は「義気千秋」「除暴安良」をモットーとし、暴力を排して良民を助ける心をもった義侠心にあふれる人間でした。私が小日向白朗に興味を戴いたのは、
- 私が中国東北地区の歴史と文化に異常な興味があること
- 小日向白朗が中国政変前に中国武術を学んだ数少ない日本人であること
- 天下万民の泰平のために動いたこと
があったからです。
小日向白朗の人生にはロマンを掻き立てられます。機会をみつけ、遼寧省鞍山市の千山にある無量観を拝観しようと思っています。本日は「馬賊の歌」の歌詞をもって締めくくりとします。
馬賊の歌
俺も行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた 海の彼方にゃ支那がある 支那にゃ四億の民が待つ