みなさんは科挙という単語を聴いたことがあるでしょうか。中国史において有名は官僚登用試験の事です。今回は文人官僚を登用する科挙を解説するとともに武人を採用する武挙について解説します。
科挙とは
科挙とは、中国で598年から清朝代まで行われていた官僚登用試験のことです。科目による選挙という意味合いがある言葉です。
科挙による官僚登用制度が採用される前には、貴族が政府の役職を独占する時代が続いていましたが家柄や派閥に関係なく優秀な人材を広く登用する目的で誰でも受験ができる試験を始めたことは当時の世界において他に類を見ない画期的な制度でした。
科挙を始めて採用したのは隋ですが、隋や唐は出自を軍閥や異民族を背景としているため当初は効力を発揮することができませんでした。後に宋代になると地方軍閥の力をそぐ政策が行われたため科挙による文官登用制度は大きく浸透発展し、「士大夫」という階層を形成するに至りました。
科挙に合格し、一族から官僚を輩出することにより「士大夫」になることにより、名声、地位、経済的富を得ることができました。
科挙は誰にでも受験資格はありましたが、科挙に合格するためには幼いころから膨大な時間をかけて勉学に集中する必要があるため、労働に時間を費やす必要がない経済力や参考書の購入費、教師の招聘費用も必要であるため、実際に受験できる者は殆どが既存の官僚の家族親族や土豪、地主などの富裕層に限られていました。
地位が比較的固定されている貴族に比べ、士大夫の家系は長くても5代ほどで入れ替わっていたようです。一族に長く富と権力を留めさせるには一族から科挙合格者を輩出させ続けなければならないという背景あったからです。科挙の競争倍率は時代によって異なりますが往々にして非常に高いものでした。
科挙は国家が行う重要な国事であり、合格すれば富と名誉が約束されたため、受験者は様々な工夫をこらして不正を試みました。膨大な文字がかかれた下着が今日も残されていることがこれを物語っています。
科挙に合格した官僚は詩文、文芸のみと尊び、俗事には無知であることを誇りとする風潮がエスカレートします。これは、俗に「万般皆下品、唯有読書高」(ただ読書のみが尊く、それ以外はすべて卑しい)という言葉に象徴されます。
科挙の歴史
ここでは科挙の歴史について簡単に解説します。
隋
隋以前の王朝では世襲の貴族が官位や家柄により官僚になるという制度が設けられていました。これはいわゆる貴族制度であり、貴族の子弟が官僚を代々世襲するため、優秀な人材とはいいがたい官僚が朝廷にはびこるという状態にありました。
隋の文帝は優秀な人材を世間から幅広く集めるため、この制度を見直し、実力の有るものが官僚になれるように制度を改めました。
唐
唐代になると秀才、進士などの科目が設けられ、詩を主な試験内容とする進士科がもっとも重要視されるようになります。進士科は、策という作文問題などの試験が行われていました。方言、風貌、文字の美しさ、法律や制度の理解についても審査の対象となっていました。
宋
宋を建国した趙匡胤は地方軍閥の勢力を削ぎ、文治主義を徹底させるため、何者も科挙に合格しなければ官僚になれない体制を構築しました。そして、科挙の最終試験は高弟自らは審査を行う殿試という試験を行い、それに合格した官僚たちが皇帝自身に選ばれた者として忠誠を誓うようになるよう制度を改めました。
このころには、賄賂を受け取った検査官によって特定の受験者が不正に合格しないようにするため名前を隠して採点を行ったり、筆跡から特定の受験者が特定され不正に合格しないように受験者以外の人物により書き写された答案が審査されたりと言った採点方法が採用されたのも宋の時代です。
元
元代は宋代のような体系化された科挙制度は実施されませんでしたが、学問だけでない
多様な官僚への登用ルートがありました。
明
明代にはいると、科挙を受験するためには童試という学校の学生にならなければならなくなりました。また受験内容は「八股文」という様式で作文するというスタイルが定着しました。
清
清代にも科挙制度は存続しますが、清代では支配階級の満州族が武人として君臨していましたが比較的緩い基準で文官になることもできました。清朝末期、欧米列強に対抗するため近代化を模索していた清は、1905年に科挙を廃止するに至りました。
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科挙を受験する順序
科挙を受験するにあたって行われる順序について簡単に説明します。
童試
童試とは、国立学校の学生になるための試験です。官僚になるためにはまずは童試に合格し国立学校の学生にならなければなりません。童試は3年に一度行われ、最後には朝廷から派遣された学政による試験を受けます。これに合格すれば生員となり、秀才と呼ばれ、世間からは士大夫の一員とみなされるようになります。
歳試
歳試とは、国立学校の学生たる生員が定期的に受験する定期試験です。成績優秀者は地方官に任命されることもありますが、成績が思わしくない場合、退学処分ともなります。
科試
科挙を受験するための予備試験です。これにより受験人数の絞り込みが行われます。合格すれば郷試に受験する資格が与えられます。
郷試
郷試は、童試が国立学校に入学するための試験であるのと異なり、科挙の本試験の一つです。3年に一度実施され1次、2次試験のあと、3次試験では政治的政策問題を問われる策題という試験が課せられていました。
郷士に合格すれば挙人と呼ばれるようになり、次の試験を受験する資格を与えられました。
会試
挙人となったものが受験できる試験です。合格すれば貢士の称号を受けることができます。これに合格すると進士の試験を受験することが許されます。
殿試
殿試は科挙の最後の試験であり、皇帝列席のもと行なわれる試験です。この試験の成績の上位3名にはそれぞれ上から状元、榜眼、探花と呼ばれ高級官僚として将来の地位が約束されました。
武科挙
中国の歴代王朝では、文人官僚を登用するための科挙の他、武官を登用するための武科挙という制度も採用されていました。
武科挙では、騎射、歩射、技勇(重い石を持ち上げる)などの実技の他に、孫子、呉子などの兵法書の清書をおこなう学科試験がありましたが、科挙と比べると内容は平易なものでした。
まとめ
今回は、中国の官僚登用制度である科挙について解説しました。中国の歴史、特に宋代以降の漢人が主催する王朝では軍閥の跋扈を防ぎ、皇帝に権力を集中させるため文民統制が敷かれていました。
中華社会は、朝廷から征夷大将軍の任命を受けた武人が政権を担う日本とは社会制度が全く異なります。中国武術はこの皇帝親政と官僚による文民統制という社会構造を理解しなければ、発達と成り立ちを理解できません。
私の八卦掌の師である呉老師の実家は、翰林院という朝廷の研究機関に学者を3代輩出した家柄でした。一族は村一番の大地主、労働をしなくても生きていける環境でした。また匪賊からの襲撃を防ぐために武術老師を邸宅に招聘し保標に当てました。それが高義盛です。私の師爺の呉錦園は高義盛公から八卦掌やそれに付帯する武術を学んでいます。
私の山東武術の師爺に当たる王松亭公の親も秀才の号を持っており、舟を2艘保有していたため生活のために労働をする必要がなく、自分の興味がある武術に時間を捧げることができたようです。
中国武術を趣味にしていらっしゃる方も、興味があれば中華社会の社会構造や支配構造について調べてみてください。自分が育った国の歴史との違い、武術家の地位や「武夫」というものがどのような社会的地位があるのかを認識でいると思います。
その中で、武術に親しみ、これを論じることの面白さを味わっていただければと思います。