兵法三十六計とは魏晋南北朝の時代に書かれた中国の兵法書です。日本でも有名な「三十六計逃げるに如かず」はこの三十六計から取られています。
三十六計は中国の民間において広く流通し、日常の引用の題材としてもよく取り上げられ、
中国人の用兵の基本原則である「戦わずして勝つ」という原則がふんだんに盛り込まれています。
本日はその中から「混戦計」にあたる以下の六計について解説します。
- 釜底抽薪
- 混水摸魚
- 金蝉脱殻
- 関門捉賊
- 遠交近攻
- 仮道伐虢
目次
混戦計
三十六計における混戦計の計略は以下の通りです。
釜底抽薪
釜底抽薪(ふていちゅうしん)は、兵法三十六計の第十九計で、釜底の薪を抜く、という計略です。釜を沸かせるのは薪の力であり、その薪を抜き取ってしまえば釜の水はわかなくなります。
つまりは、相手の糧食や戦争の動機、兵站の源泉を攻撃することで敵の勢いをそぐという計略です。兵員を逃亡させたり、士気を落とさせたり、兵器の生産拠点を潰す、移送している食料を奪う、等の戦術が含まれます。
釜底抽薪の具体的事例
官渡の戦い
三国時代、中国北部で袁尚と曹操が対峙した「官渡の戦い」では、袁尚軍が10万、曹操軍は5000~1万の兵力で曹操軍が圧倒的に不利な状況に置かれていました。更に袁尚が潤沢な物資を背景に持久戦に持ち込んだことから曹操軍は更なる苦戦を強いられました。窮地に立たされた曹操の元に袁尚側から許攸が投稿してきました。
彼は、袁尚側の兵糧は烏巣に集結しており、そこの守りは貧弱なことを曹操に伝えました。曹操は5000の兵をも率いて烏巣を強襲し、兵糧を奪い、奪いきれない分に火をつけて焼き払いました。これを聞いて浮足立った袁尚軍は内部分裂から大混乱に陥り、曹操は見事に大勝利を収めました。
アメリカの石油輸出禁止
国際連盟を脱退し、泥沼の中国前線を戦う日本帝国に対し、アメリカは石油輸出を禁止します。現在でいう経済制裁です。これにて日本の経済力、軍事力を弱体化させようとします。
なぜなら当時日本は石油をアメリカから輸入していたからです。
結果は日本帝国はこの挑発に乗る形で勝つ見込みのないアメリカとの戦争を繰り広げることになりました。アメリカにとっては、日本が資源に乏しいことを活用し、開戦に誘導し、最終的に日本に無条件降伏させることで日本の勢力を弱めることに成功しました。
混水摸魚
混水摸魚は三十六計の第二十計で、水をかき混ぜて魚を取ると言う戦術です。
水をかき混ぜて魚をあぶりだし、その魚を捕まえるという意味合いの戦略です。敵方に内紛があればそれに乗じて勝利を収める。もし内紛が無ければ、敵方の判断を惑わすような攪乱情報を流し相手に内紛を起こさせるという方法論です。
戦略的には、内部を混乱させ、そこで内紛を起こさせ敵を弱体化させたり、内部をかき回すことにより、敵内の反対勢力をあぶりだし、こちらに都合のいいように利用するという方法でも利用できます。
混水摸魚の具体的事例
王陽明の軍略
明代、寧王が反乱を起こした時のことです。軍司令官として反乱の鎮圧を命じられた王陽明は、自軍の戦闘準備が整っていない状況を案じて一計を打ち出しました。
王陽明は寧王配下の李士実と劉養正に対する偽書を作りました。その偽の密書には「阿多田たちの忠誠はよく理解した。寧王が城から打って出るよう上奏していただきたい」と書かれていました。
そして、寧王派と詐称させた看守を介し、予めて捉えていた寧王側の間者それを持たせて寧王のもとに逃走させました。李士実と劉養正は現実的に、早く南京を占領するように進言していましたが、間者の話を聞いた寧王は疑心暗鬼に陥り動くのを躊躇しました。
王陽明の南京では実は全く戦闘の準備が整っておらず、ここを攻められれば占領されていてもおかしくはなかったですが、寧王はこの機会を逃してしまい、結局準備を整えた王陽明により制圧され滅ぼされました。
ヒトラーの後方かく乱作戦
第二次大戦後半のヨーロッパ前線、劣勢の大陸前線を挽回しようとヒトラーは一計を考えます。フランス国境に近いアルデンヌの森に兵士数十万、車両二千輌を配置し、大反撃に出ようとしていました。
その際に、英語に堪能な兵2000名を抜擢し、彼らにアメリカから奪った軍服や車両を使用させ戦場の後方に配置しました。そして彼らをアメリカ軍に紛れ込ませて補給経路、通信網を破壊し、相手の後方部隊を混乱に陥れました。
金蝉脱殻
金蝉脱殻は、兵法三十六計の第二十一計です。金の蝉、殻を脱すると読み、これは現地に堅固にとどまっているように見せかけ敵を釘付けにしておきながら、主力を撤退させる戦略です。
相手が強敵で策がなくなり、まともに撤退すれば追撃を受け大損害が出るような状態で安全に撤退するための策です。つまり、セミが抜け殻をきれいに残しながら飛び立つように、現地にそのまま滞在しているかのように見せかけるという作戦です。
金蝉脱殻の具体的事例
劉邦のピンチ
劉邦が立てこもった城を項羽に包囲され、脱出もままならない状況に陥り、食料も底をつくピンチになったときの事、将軍の紀信が劉邦を装い、城内にいた女子供を兵士に紛争させ降伏を装いました。
項羽軍は始め軍勢が外に打って出たとおもい攻勢を掛けましたが、鎧の中身が女性であったため何事かと思い、そこに留まりました。他の場所を守っていた項羽の軍勢もなんの騒ぎかとそこへ集まってきました。劉邦はそのすきに反対の門から逃れ、本拠地に戻り体制を立て直すことに成功しました。
天正伊賀乱の比自山合戦
伊賀の土豪衆と織田信長勢が戦った天正伊賀の乱では、土豪衆とその郎党下人あわせて数千名が、総勢4万以上の織田軍と熾烈な戦いを行いました。国境の小城や砦は次々と落城し、北伊賀では土豪中が比自山(現在の芭蕉の森)に集結しました。
伊乱記によると、比自山の麓の風呂ヶ谷でも壮絶な合戦が繰り広げられたと記載されています。筒井順慶やの軍に包囲され睨みあいを続けていましたが、このまま籠城しても勝ち目がないとみた伊賀の土豪衆は、旗を立てかがり火を燃やし、いざ打って出んという状態を城内に造りつつ、ひそかに比自山から山伝いに撤退を行いました。
総攻撃をかけた織田軍が見たものは、人っ子一人いなくなりもぬけの殻の比自山。織田軍はまんまと伊賀衆に図られたことを悔みつつ伊賀最後の拠点柏原城に向かいました。
関門捉賊
関門捉賊は兵法三十六計の第二十二計で、門を閉ざして賊を捉える戦術です。こちらが圧倒的に優勢であり、しっかり退路を塞いでいれば窮鼠に噛まれる可能性を恐れる必要はなくなります。
その際には、徹底的に相手を包囲し殲滅すれば逃走させながら相手を徐々に消耗させるよりも効率よく相手方の力を根絶やしにできます。相手を逃がしながら勢いをそぐ場合にはそれなりの利点があるものの、相手が機智に富んだものであれば、逃走によりこちらを
引き込み、罠や伏兵を仕掛けてくることもあるので注意が必要です。
その点、関門捉賊では、逃げ場所も隠れ場所もない場所、例えば、城門に仕込まれた虎口のようなところに敵を追い詰め閉じ込めてしまい上から弓の一斉射で完全に根絶やしにするという方策が有効です
関門捉賊の具体的事例
秦の中原統一
戦国時代、趙はわが方が優勢なることを頼りに秦を攻めますが、秦の伏兵により兵は完全に包囲されてしまいました。秦は包囲した趙軍を完全に綴じ目込め、一切の食料も届かなくしました。
兵糧が絶えた趙軍は秦に降伏し、40万ともいわれる兵が秦の捕虜となりましたが、彼らに充てる食料もなく、反乱を恐れた秦は40万とも言われる秦の兵のほとんどを連れ出して生き埋めにしました。これが長平の戦いです。趙はこの後急速に弱体し、戦国時代の諸侯のパワーバランスが崩れる原因となりました。
遠交近攻
遠交近攻とは、兵法三十六計の第二十三計にあたる戦術で遠くと交わりを結び、近くを攻めるという戦術です。遠方へ軍を送ることは労多くして功が少ないですが、地理的に近くの所を攻めれば比較的少ない費用で領土を拡大することができます。また同盟を結んだ遠方の味方と示しあえば、近くの敵を挟み撃ちにすることもできます。
戦国時代の中原では、諸侯が絶えず戦争を繰り返し、同盟と敵対を繰り返していました。
国を攻める場合は複数の同盟国が同時に攻撃したり、二正面作戦を遂行したり、戦果を分け合ったりを行っていました。
近くの国どおしで遠くの国を攻めてそこの領地を得ても、管理が難しく手間がかかるため、遠くの国と親交を結びながら近い国の領土を削り取るという作戦に出る国が多く現れました。
遠交近攻の具体的事例
秦の中原統一
秦は中原の諸侯からは虎狼の国と言われ野蛮国扱いされた後進国でしたが、内政改革により国力を増強し、遠交近攻の戦略により遠い国と同盟を結びつつ近い国を攻めるという戦略を行い勢力を拡大しました。首府の遠い、斉や楚と同盟しつつ、近隣の韓、魏、趙を攻めることにより秦は勢力拡大を続け、やがて最後に残った斉を滅ぼし中原を統一しました。
宋の夷を以て夷を制する外交
北宋と南宋は常に北からの異民族の脅威にさらされていました。宋が行った外交政策も遠交近攻の典型例です。遼国と対峙するにはさらに北の金国と同盟し、モンゴルが南征してきた際には金に打撃を与えるためモンゴルと同盟するという中華の典型的な戦略を駆使しました。
これらの同盟と戦略は最終的にはうまくいかず宋はモンゴルに屈するわけですが、夷を以て夷を制すという戦略を考える意味で大きな価値がある考え方です。
日英同盟
日英同盟は日増しに強まるロシア帝国の脅威に対抗するため、当時の先進国の英国と極東の後進国である日本が結んだ同盟でした。
英国は、日本とロシアに日露戦争を起こさせることにより、ロシアの目を極東に向けさせることによりヨーロッパ大陸への勢力拡大をとん挫させるという大きな戦略を描いていました。また日本も英国で戦費を調達することにより莫大な軍事費を賄うことに成功しています。
日独伊三国同盟
日独伊三国同盟は、当時国際的に孤立した三国が同盟を結び通軸国と言われた同盟です。これはアメリカやイギリスに対抗するという意味の他に、当時計画経済により一大強国となっていたソビエト連邦に対し二正面作成を強いるという牽制の意味が込められていました。
重慶国民政府とアメリカの同盟
軍閥寄り合い所帯を蒋介石がまとめ上げた重慶国民政府はアメリカと同盟をすることにより、日本と汪兆銘の南京国民政府、ソ連が背後で支援する八路軍や新四軍などとの泥沼の戦争を行っていました。
日本帝国と比べて練度と士気、兵器の質で劣る重慶国民政府は、アメリカから最新式の兵器の援助を受けつつ、日本をアメリカと交戦させることにより、少なくとも海軍兵力を太平洋方面に押し出し、日本陸軍とだけ消極的に対峙し、戦局をなんとか膠着状態に陥らせることに成功しています。
仮道伐虢
仮道伐虢(かどうばつかく)は、兵法三十六計の第二十四計の戦術で、道を仮りて虢(かく)を伐つという読み下し文となります。
概略としては、排除するべき対象がある時に、それを別々に分断し、一つづつ撃破する作戦を言います。一旦同盟し後にそれを破棄しつつ滅ぼすこともこの戦略の一つです。小国の窮状に付け込んでこれを飲み込む際に有効な戦略です。大国に攻められている小国を援助するなどの大義名分に乗じて影響力を拡大し木をみてこれを併合する方法が取られます。
仮道伐虢の具体的事例
秦の中原統一
戦国時代末期、秦が列国の重鎮を買収するために大金を贈りました。これにより趙は滅亡を早め、東で最後まで残っていた斉でも秦と結ぶべきか、秦と対抗するべきかで国内の意見が分かれ、各国が一つづつ撃破され滅んでいく中でそれを傍観するのみとなりました。
秦に取り入った各国の重臣たちはその後、秦国内に記載が見られないことから抹殺されたりともに各国が滅んだ時にともに放逐されたとみられます。利用価値がある場合には利用するべきものは利用しますが、価値がなくなればあとは適当な理由をつけて放逐すれば後の患いとはならないからです。
三十六計 混戦計のまとめ
今回は、兵法三十六計から混戦計にあたる六計を紹介しました。上兵は謀を伐つ、と言うように優れた戦略家は兵を投入して直接対決し多大な犠牲を払いながら敵に勝利するのではなく、少ない労力で多大な戦果を挙げるために知恵を使います。
兵法三十六計は戦争の駆け引きだけではなく、人間関係で優位に立つことや、処世術にも応用が利くことがたくさん含まれています。これらを参考にし有意義な人生設計を送っていただければと思います。