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三十六計 ~併戦計~

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兵法三十六計とは魏晋南北朝の時代に書かれた中国の兵法書です。日本でも有名な「三十六計逃げるに如かず」はこの三十六計から取られています。

混戦計
三十六計 ~混戦計~兵法三十六計とは魏晋南北朝の時代に書かれた中国の兵法書です。日本でも有名な「三十六計逃げるに如かず」はこの三十六計から取られています。 ...

三十六計の概要

中国の城壁中国の城壁

三十六計は中国の民間において広く流通し、日常の引用の題材としてもよく取り上げられ、中国人の用兵の基本原則である「戦わずして勝つ」という原則がふんだんに盛り込まれています。

本日はその中から「併戦計」にあたる以下の六計について解説します。

併戦計
  • 偸梁換柱
  • 指桑罵槐
  • 仮痴不癲
  • 上屋抽梯
  • 樹上開花
  • 反客為主

併戦計

兵馬俑兵馬俑

三十六計における併戦計の計略は以下の通りです。

偸梁換柱

偸梁換柱は兵法三十六計の第二十五計にあたる戦術で、梁を盗んで柱を入れ替えるという意味合いがあります。

つまり梁を盗んでしまい、柱を入れ替えて、相手の芯を骨抜きにするということを言います。これを使えば、外面は同じでも中身は別物、相手の中核戦力を入れ替え、すっかり勢力を弱めてしまうことができます。

敵国の重臣を無能なものに置き換える、陽動により敵の主力部隊から精鋭だけを他のところに張り付けさせる。等でこちらが優位な状況を構築する戦略をもさすことがあります。

偸梁換柱の具体的事例

ソ連のアフガン侵攻

ソ連は中東からインド洋に出るルートを確保することを国家戦略として考えていました。そこで目を付けたのがアフガニスタンです。ソ連はアフガニスタンの政府機関に何千名もの顧問団や専門家を派遣していました。

そして様々な手段を駆使し、ソ連に反抗する勢力を駆逐し、軍や主要な期間を親ソ連の人間で押さえました。このようにして中身を自軍に友好的な人間に置き換えていくことは、偸梁換柱の典型的戦略です。

指桑罵槐

指桑罵槐(しそうばかい)は三十六計の二十六計で、書き下し文としては、桑を指して槐を罵るとなります。

本当は槐を批判したいが、勢いが強くそれがはばかられる場合は、その代わり桑を指して批判し間接的に槐を批判するという戦略です。

本当に批判をしたい者を直接名指しにすることなく、別のものを批判することにより、間接的に人の心を操作する作戦です。このように批判されたものの反発心が批判したものに直接及ぶのを避けながら、人の心を制する戦略です。

指桑罵槐の具体的事例

荘賈の処断

春秋時代、燕の攻撃をうけた斉では、荘賈と言う人物が将軍に付き従うことになっていたが、出陣の当日約束の時間を大幅に遅れてやってきました。将軍は荘賈を即刻斬首とし、これを全軍に布告しました。これにより軍紀は引き締まりました。

軍紀を守ることを全軍に通達せず、一人の人間を遅刻により斬首したことを伝えるだけで、兵は軍紀を順守するようになり、全体が引き締まったと言います。

仮痴不癲

仮痴不癲(かちふてん)は兵法三十六計の第二十七計で、暗愚を装い、相手の警戒感を解くという戦術です。

したたかな計算を胸に秘めながらそれを外に表さず、愚か者やバカになったように装うことです。癲とは狂うこと、発狂することを指します。

つまりバカを装うが愚者にはならないという意味です。これを成功させ、警戒心を解くためには「痴」を装う演技力の如何がカギを握ります。

仮痴不癲の具体的事例

司馬懿の名演技

魏の重臣であった司馬懿は、朝廷に曹爽の勢力が台頭すると病気を装い邸宅に引きこもりました。しかし羽振りを聞かせている曹爽にとって、司馬懿の存在は気になるところ、ある日、部下の一人を使わして司馬懿を見舞いに行かせました。

司馬懿は肩の着物がずれ堕ちるたび女中に着せてもらったりしていました。また司馬懿は粥の入った茶碗から粥をすすりこもうとしても粥を胸のあたりにボタボタとこぼし服を汚してしまう有様。話も支離滅裂でした。

部下は、曹爽に、「司馬懿殿は粥もろくにすすれない有様、受け答えも支離滅裂でまことに気の毒なことです」と報告しました。曹爽はこれを聞いて安心し、芝居の事を念頭に置かなくなりました。一か月後、司馬懿は曹爽の油断を捉えてクーデターを多し、反対派を打倒して皇帝をしのぐ権力を手に入れ、孫の司馬炎が禅譲される道を切り開いたのでした。

漢の陳平による呂氏粛清

漢では劉邦が無くなると呂氏が朝廷の実権を握りました。建国の重臣である陳平は、警戒される立場でしたが、酒と女に溺れるふりをして建国の功績のある重臣たちが次々に粛清されている嵐の中を避けました。

呂雉の死去を契機に呂氏を宴会に誘いましたが、陳平は素行に問題ありとして呂氏は警戒を行っておらず遂に陳平はクーデターを実行し呂氏を皆殺しにすることに成功したのでした。

上屋抽梯

上屋抽梯は三十六計の第二十八計で、屋に上らせ梯を抽(はず)すという意味の戦略です。

わざと隙を見せて後方の補給部隊との連携を断ち切り、逃げられない状況を作って相手をせん滅するという戦術です。上屋抽梯とは人を二階に上がらせて梯子を外してしまい降りられなくするという意味です。軍事的にも使えますが、政略的にライバルを陥れて競争の場面から引きずり下ろすためにむしろ活用されます

上屋抽梯の具体的事例

項羽の破釜沈舟

楚漢戦争で覇王を自称していた項羽は、秦軍に包囲された同盟軍に援軍を派遣した時、黄河を渡るや直ちに舟を沈め釜を壊し、兵に3日分の兵糧しか持たせなかった。このようにして兵に決死の覚悟で戦うようにけしかけました。

その結果、彼らは一人が十人を倒す戦いぶりで、敵も息をのむばかりでした。これは項羽の破釜沈舟と言う計略で、これは退路を断つという意味で上屋抽梯と同類の計略となります。

李林甫の権力闘争

唐の宰相に李林甫と言う人物がいました。彼には厳挺子というライバルがいましたが地方に左遷されていました。有る時、玄宗皇帝が厳挺子はどうしてるか李林甫に問いかけました。

李林甫は席を退出すると、厳挺子の弟に、「皇帝はあなたの兄をとても目にかけている」
「皇帝にお目にかかったほうが良いが、地方にいてはそれもできまい、いっそ中風にかかり都にて養生したいと願い出てみてはどうか」「兄上に一度連絡してみるがいい」と言いました。

厳挺子は喜んで帰京を願い出ました。玄宗皇帝は厳挺子はどうしたことかと問い合わせました。厳挺子は「厳挺子は老いぼれて中風になっています。閑職に左遷し養生に専念するようにしては如何でしょう」と上奏し、李林甫はライバルが復活する芽を事前に摘み取ったのでした。

樹上開花

樹上開花は三十六計の二十九計で小兵力を大兵力に見せかけて敵を欺く戦略です。樹上開花とは樹の上に花を咲かせる、と言う意味です。これは兵力が劣勢な時にこちら側のほうが大勢力に見せかけて敵を威圧し、相手の攻撃をためらわせる際に使用される戦略です。

樹上開花の具体的事例

八路軍のカマド

1947年、河南省一帯で遊撃戦を行っていた八路軍の囮部隊の陳賡兵団は行軍する際にはわざと目立つように行軍し、その後また迂回してもとの位置にもどり、また行軍することにより兵力が何倍もあるかのように偽装し、一兵団を複数の兵団のように見せかけることに成功しました。

またカマドの数を必要以上に多くしたり、撤退する際には、背嚢を多く捨てるなどして、少数の兵力をあたかも大兵力であるかのように装いました。国府軍はこの部隊を何か月も追い回しましたが、八路軍のほうは、敵を少数の部隊に釘づけにすることにより主力をじっくり休養させ、決戦の時に備えることに成功しました。

反客為主

反客為主は三十六計の三十計であり、客を返して主(あるじ)と為すという計略です。

まずは敵の臣下になり中に入り込んでから徐々に内部で力をつけて内から敵を乗っ取るという計略です。時間がかかる計略ではあります。まずは敵の内部に潜入し、主人に取り入り弱点を探し、権力を奪取し、敵に取って代わり、その後権力を固めることにより計略は完成します。

反客為主の具体的事例

司馬家三代の計

司馬懿は若いころから有能であるとの評価が高い人物でした。そのためそれを警戒した曹操にはやや警戒された部分がありました。その後、魏が曹丕、曹叡の代になると重臣となりました。彼らが比較的短命で逝去したこともあり、司馬懿の権力は大幅に増大しました。

曹叡の死後、曹爽は司馬懿を名誉職にまつりあげ権力を奪おうとしましたが、彼はクーデターを画策し、権力を曹家から奪い粛清しました。魏朝の中枢から創業の曹一族を締め出し、孫の司馬炎の代になり、禅譲を受けて晋を建国するに至りました。

まとめ

万里の長城万里の長城

今回は、兵法三十六計から併戦計にあたる六計を紹介しました。

中国兵法には、少ない兵力や不利な状況でも大勢に勝てる奇策が多くの歴史的事例を挙げて説明されています。戦略は何も大勢力と大勢力が正々堂々と総力戦で正面対決するだけとは限りません。以下に少ない投下労力でいかに効率的に有利な状況に持って行くかにすべてがかかっていると言えます。

三十六計など中国兵法などを参考にし、正面突破や正面衝突による総崩れを防ぎ、詐をもって戦わずして勝つというなかから人生の駆け引きのヒントを得て頂ければと思います。

三十六計敗戦計
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