霍元甲は秘宗拳を普及させた天津出身の武術家です。上海精武体育会の創設者の一人として、また秘宗拳を広めたことでも有名です。本日は霍元甲について解説します。
目次
霍元甲の生い立ち
霍元甲は清朝末期の1868年に直隷省静海県小南河村(現在の天津付近)にて生まれました。霍元甲は字を俊卿といいます。
霍家の祖籍は河北省滄州市東光県です。霍元甲は鏢師を生業とする家庭で生まれ、家伝の秘宗拳を伝承していました。幼いことは病弱で体が弱く、武名を汚すことを恐れた父親は霍元甲に武術を教えませんでした。
そのため父兄の武術練習をのぞき見にながら武術を身につけました。その後彼は父に才能を認められ家伝の秘宗拳の教えを受けました。霍元甲は各家の武術の長所を取り入れ、父祖伝来の秘宗拳を迷踪芸へと発展させました。当時は欧米列強が帝国主義の名のもと中国大陸に触手を伸ばしている時代でした。
農勁蓀との出会い
霍元甲は27際の時までは故郷で生活をしていましたが、その後は天津へ商売に出かけるようになりました。天津では運搬工したり、薬局で働いたりをしていました。
薬局で働いていたときには千斤の薬材を持ち上げたりし、霍大力士と呼ばれるほどの怪力を見せていました。またここで生涯の友なる農勁蓀と出会うことになりました。
農勁蓀は日本に留学した経験もあり、学識も深く、世界情勢など多くの知識や見識を霍元甲に伝えました。これにより霍元甲は世間が広がり、後の発展につながっていくことになります。
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中国精武体操会(後の精武体育会)の創立
1910年には霍元甲は農勁蓀の援助を受け上海に「中国精武体操会」(後の精武体育会)を創立しました。霍元甲が精武体育会で教授した迷踪芸は霍家秘伝の絶技であり、各門派の精華を吸収したものでした。
霍元甲は自家の武術について以下のように述べています。「この拳を学ぶのは易しいが、練り上げるのは極めて難しい。柔の中に剛があり、歩は猫の如く動作は閃電の如し」孫文も霍元甲の秘宗拳を称賛し、親筆の「尚武精神」を精武体育会に送っています。
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上海での公開試合
1909年には西洋人レスラーが中国人を「東亜病夫」と風刺したことにより上海市民が憤慨する事件が起こりました。この知らせを聞き付けた農勁蓀は上海の名士や革命党員の陳其美をして霍元甲をレスラーと試合させるように推薦させます。
霍元甲は上海に到着し、西洋人レスラーに対決を挑んだんのの、レスラーは試合の時間になってもリングに現れず霍元甲の不戦勝に終わりました。
中国精武体操会(後の精武体育会)について
陳公哲、農勁蓀、陳其美、陳鉄生を発起人とし、霍元甲を武技および軍事担当、農勁蓀を会長として1910年に成立した中国精武体操会は中国でもっとも早い時期に成立した体育団体でした。会旗には、体、智、徳の3つが紋章として表記されており、身体、知恵、人徳を育成するという精神が表されています。
人格の形成、品行、現行、友好等の規範を含めた愛国、修身、正義と相互扶助を精武精神としています。精武体育会の会員規則は厳しく、入会には必ず人の紹介を必要とし、入会後にもし規則違反あった場合には除籍となるという決まりがありました。
入会できるのは12歳から35歳までの健康な男性で、学費は2元でした。1910年には清朝政府は精武体操会を正式に認定しました。
霍元甲の逝世と死因の噂
霍元甲は1910年に息を引き取りました。わずか42歳、精武体操学校を創設してから3か月後のことでした。霍元甲の死因は現在も多数の説があり、現在も憶測が交わされています。
その一つは、霍元甲は喀血と伴う病気を患っていたという説です。
これを少年時代からの気功の練習により肺に障害を負ったことが理由であるとの主張もあります。ですが、肺病と気功に客観的な観点で見た場合の関連性があるとは言い切れない部分があります。
また別の仮説では、霍元甲は肝臓病を患っており肝臓病により死去したという説もあります。心臓病が彼を死に至らしめたという説もあり様々な憶測が現在も飛び交っています。
また霍元甲は自身の肺病を緩解させるため日本人医師が処方した薬を飲み、その後病状が悪化したことが死因の理由であるともされます。
これが日本人による毒殺説の根拠の一つになっています。たくさんの憶測を生んでいる霍元甲の死ですが、真相は今も謎に包まれています。
精武体育会
霍元甲は精武体育会の前身となる団体を創立してから数か月後に逝去しましたがその後は霍東閣が教師を務めました。
その後は各地に分会が発足しその数は国内外合わせて43か所、会員総数は43万人にも上りました。1919年に上海で行われた10周年記念活動の際には、孫文が「尚武精神」親筆の額を贈呈しました。
霍元甲故居
霍元甲の実家は1986年に天津市により修繕され1997年には霍元甲故居紀念館として開放されています。霍元甲故居紀念館は霍元甲故居と霍元甲陵園の二つから構成されています。故居は同治初年の建築とされています。
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霍元甲の武術のその後
霍元甲の長男は実家に留まり農業を営んでいました。次男の霍東閣が父の事業を受け継ぎ上海で精武体育会の事業を継承しました。1919年には霍東閣は広東の分会にも招聘され広州でも武術の教授にあたりました。
霍元甲のまとめ
今回は秘宗拳の名人で精武体育会の創始者のひとりである霍元甲について解説しました。霍元甲は、眠れる獅子が「東亜病夫」であることに気づいた欧米列強が中国を蚕食しようとした時代に、愛国精神を鼓舞し、尚武精神の発揚を掲げた英雄として現在も民衆から慕われています。