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中国武術名人録 高義盛~六十四種の実用技法を集大成した程派高式八卦掌の創始者~

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今回は、六十四種の実用技法を特徴とする程派高式八卦掌の創始者である高義盛について解説します。

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高義盛の生まれと生い立ち

頤和園頤和園

高義盛(号徳源 字寿山)は1866年に生まれました。原籍は山東無棣県大山鄉の大庄子出身の武術家です。

高義盛は、大庄子で生まれ育ちました。大庄子は山東省北東部にあり、黄河からの堆積物により形成された平野部に当ります。決して豊かな地方ではなく、作物も一年に一度しか育たない土地柄です。他の貧しい土地と同じく、仕事を求めて都会に出る者が多く、高義盛も例に漏れませんでした。

高義盛は若い頃から家伝の少林拳系武術を学んでおり、後に李存義の指導を受け形意拳も修めています。三十代で周玉祥と面識をもち、その後長きにわたり周玉祥に八卦掌を習っていましたが、周公からの縁により後に八卦掌の名師である程廷華から指導を受けることになります。

これらが高義盛の基礎となり、磨かれ整理された後、独特の風格を持つ程派高式八卦掌(揉身連環八卦掌または揉身八卦連環掌)となります。

高義盛は天津の楊村鎮に移住し、八卦掌や武術を教えることで生計を立てていましたが、そこで宋益仁という一人の道士から六十四種の直線技法を学んだとされています。その後、高義盛は生まれ故郷である、無棣県大山鄉に戻ります。そこでは旧知の友人で大山鄉の大地主である呉輝山に請われ薬補を開きながら邸宅で武術を指導することになります。

当時の中国は治安が悪く、土地の郷紳や有力者は邸宅に武術家を雇い入れ保標(用心棒)とすることが盛んに行われいました。当時、高義盛は長い髭を蓄えており、呉家の家族や使用人からは「老師傅」と呼ばれていたそうです。

呉家の邸宅には「習武庁」という武術を練習するための部屋が設けられており、そこで呉輝山とその息子呉錦園は転掌や、六十四種の直線打法、八卦槍、八卦棍及び対練などを学びました。呉錦園が15、6歳になったころ、高義盛は大庄子を離れ、再び天津に戻っていったそうです。

高義盛はその後天津租界に移住し八卦掌と六十四種の打法を指導し、多くの弟子を育てました。易宗門で有名な台湾の張峻峰氏もその中の一人です。

程派高式八卦掌

万里の長城万里の長城

高義盛が整理した内容は現在「程派高式八卦掌」という名でも呼ばれています。円周上を回る「転掌」や換掌とは別に、六十四種の実践用法及びその対打を練ることを最大の特徴とします。

後天八卦六十四掌と宋益仁の謎

中国の山々中国の山々

高義盛が伝えた六十四種の実用打法は後天八卦六十四掌とも呼ばれ、高義盛は宋益仁という道士からこれを学んだことになっています。ですが、「宋益仁」という人物には不明な点が多く、またその発音は「送芸人(芸を送り届ける者)」と完全に同一です。ここから中には、

  • 六十四種の打法は宋益仁という道士から学んだことにしつつ、高義盛自身が少林拳系長拳や通背拳、螳螂拳、形意拳、摔角などを参考に編纂したものである。

という仮説を唱える方もおられます。六十四種の打法の成立については今後の研究が待たれます。

まとめ

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高義盛は、程派八卦掌に独特の技法を追加し、発展させた近代の名人の一人です。伝承は天津地区、山東無隷県、香港、台湾台北市や新竹県、日本にも広がっています。花垣武学研究会で練習している八卦掌も高義盛の流れを汲みます。

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