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王向斉 ~套路を廃した革新拳術「意拳」の創始者~

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王向斉は意拳の創始者です。伝統武術に属する武術のオーソドックスなものとは皆多かれ少なかれ套路あるいはそれに準じたものを持っています。

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意拳は套路を持たない、あるいは套路を廃した武術として有名です。今回は形意拳や様々な武術を参考に意拳を創始した王向斉について解説します。

王向斉の生い立ち

天壇天壇

王向斉は1890年に生まれた河北省深県魏家林村出身の武術家です。名を政和または尼宝、字を宇僧と言います。号は向斉(薌齋)です。

王向斉は8歳の時に河北派形意拳を学び始めたとされています。深県は尚武な気風があり、多くの有名な武術家を輩出した土地柄です。形意拳の始祖である李洛能、形意拳の名人である劉奇蘭、郭雲深も深県の出身です。八卦掌では程延華が深県から出ています。

武術界との交流と切磋琢磨

万里の長城万里の長城

1907年王向斉は従軍しここから武術界との往来が始まりました。この時期王向斉は張占魁とも交流を深めています。陸軍の招聘により、武術練習所の教官の任にも当たりました。

1918年からは政局の変遷に伴い武術の教授を停止し、南方へ行脚を行いました。少林寺や福建を含む南方では多くの名師名人らと交流し、武術の神髄を探求したといわれています。1925年に王向斉は北方へ戻り、その後は天津と北平を往復する生活を送ります。

意拳の創出

中国の風景中国の風景

王向斉は1926年に遊歴による武術交流によって得られた知見を総合しこれを「意拳」と名付けました。1928年には李景林、張之江の要請により杭州で第三回全国運動会武術大会の審判を務めました。その後王向斉は上海に留まり、武術を正式に「意拳」として公開教授を開始しました。

意拳の指導

中国の風景中国の風景

1935年には王向斉は天津を経て深県に戻り郷里で弟子を指導しながら武術の研究にいそしみました。深県での指導は非常に厳格で站樁の練功も耐えがたいほどつらいものであったと語り継がれています。

1937年、王向斉は北平(北京)に移住し意拳の伝授を行いつつ中国武術の拳訣をまとめる著書の執筆に取り掛かります。当時の中国武術の教授用法は閉鎖的な徒弟性を採用しており秘伝といわれるものはなかなか外には公開されない時代でした。

1939年に金魚胡同で行われていた練習は、技擊班の学生が多くなったため東単の大羊宜賓胡同に移り、その後東四弓弦胡同にも移動しました。ここでは中国武術発揚のため、武術を共同研究を提唱し、各派の名師たちの来訪を歓迎し交流を深めました。

1940年には東京で成立した大東亜武術競技大会から中国も参加の要請を受け、王向斉も武田熙を通じて出席の要請を受けましたが王向斉は病気を理由に出席を辞退し、同時に武田熙を通じて日本の武術家との中国での交流を歓迎する旨を伝えました。

1945年泥沼の抗日戦争に勝利後、王向斉は早朝に練習を行い、それを知った多くの人が站樁を学び始めました。1947年には王向斉を会長として太廟にて中国拳学研究会を起こしました。

当初、王向斉が教える站樁功に対し「人を惑わすもの」と否定的な見解を示す者も多くいましたが、効果を実感した者が多くなるにつれ練習への参加者も日を追うごとに増えていきました。

1949年北京に人民解放軍が入城した後は、太廟の中国拳学研究会の練習は停止に追い込まれましたが、冬場には中山公園の唐花塢前、夏場には西北角後の河岸で養生樁を教えていました。王向斉の指導方法は、適度な力で練り、剛柔虚実、動静鬆緊という拮抗する力を強調させることに重きを置いたものでした。

1958年王向斉は北京中医研究院の要請により広安門医院にて站樁による慢性疾患患者の治療にあたり、これを養生樁と名付けました。1961年河北省衛生庁の段惠軒長官の招聘により、王向斉は保定中医医院にて養生樁と各種の慢性疾患に治療を行いました。1963年王向斉は天津にて亡くなりました。

王向斉の功績

中国の風景中国の風景

王向斉は形意拳やそれまでの見分で得た広い知見をもとに意拳を創出しました。王向斉はそれまでの中国北派武術で一般的であった套路による練習を廃し、站樁、試力や技擊による練習カリキュラムを作り上げました。

特に一般的な門派では基本功の中の一つであった站樁を基本功の中心に置き、外形はなく、内面をしっかり練り、それを自由な技撃に応用していくという考え方は当時としては無くはなかったものの、比較的高度な考え方であり、このような形式を初心者から練り上げることは普及していなかったと考えます。

王向斉は内功を練ることにより初級者から武術の根本を突き詰めるというカリキュラムを広めたことで革新的な練習体系を確立したといえます。これは技撃及び中国武術の理論、運動原理について深い理解があったことを物語っています。

王向斉の著作

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王向斉の著作には「拳道中樞」、「意拳正軌」、「大成拳論」等があります。

王向斉の指導を受けた者

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王向斉の指導を受けた者で有名なものは、高振東、趙道新、卜恩富、張恩桐、韓星橋、韓星垣、尤彭熙、張長信、姚宗勲、王玉芳、澤井健一等です。

王向斉のまとめ

中国の風景中国の風景

今回は意拳の創始者である王向斉について解説しました。王向斉は中国伝統武術を発展させる形で、意拳を創始しました。

王向斉が作り出したシステムには中国武術の最も高度で効率的な部分が凝縮されています。私は意拳は学んだことはありませんが、王向斉が考案した練習システムと理論は、中国伝統武術の中で革新的かつ最も新しいものであると感じました。

伝統を受け継ぎつつ、伝統に縛られず、伝統からはみ出そうとし試行錯誤した王向斉に敬意を表し、このブログを締めくくりとさせていただきます。

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