形意拳を練習している方は、尚雲祥という名人の名を一度は耳にしたことがあると思います。
今回は、尚派形意拳の創始者であり、郭雲深の「半歩崩拳遍く天下を打つ。」が引き継がれるほどとなった形意拳の名人、尚雲祥について解説します。
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尚雲祥の生い立ち
尚雲祥は1864年に山東省武定府楽陵県にて生まれました。尚雲祥は名を雲祥、字を霽亭と言います。生家は鐙職人をしていました。幼いとき父と北京に移り鐙行を経営していました。
家は貧しかったですが、生来の勝ち気と向上心の強い性格から文字を学び、また当時有名であった武術家の馬大義から功力拳も学んでいました。尚雲祥は体躯は小柄でした気力の強い性格で武術を好みました。人からは「小糖瓜(小さな甜瓜)」と呼ばれていましたが拳術の修練は怠りませんでした。
李存義から河北派形意を習う
尚雲祥は李存義の名を慕い門下で形意拳を学ぼうと門を叩きましたが、李存義は当初は尚雲祥の小柄な体躯を見て、功はならないだろうと拒否感を示した後、劈拳と崩拳の二拳のみを彼に授けました。尚雲祥は日夜練習に励み李存義の称賛を得ることができたため真伝を学ぶことができました。
尚雲祥はあまりに練習に没頭したため本業の鐙屋の経営が疎かになってしまい靴を買うことすらできないほど生活は困窮しました。それでも裸足で練習し続けたため足は鉄のように固くなり、人から鉄足仏という異名を持つほどになりました。
尚雲祥は李存義の義兄弟である程廷華に八卦掌の技を求め、「木馬」の名を持つ八卦掌の馬貴、通臂拳の「臂聖」張策、「南呉北王」呉式太極拳の王茂斎等、広く武林の人材と交流し、多きを学び、武功を積み重ねました。
また義和団の乱で八か国連合軍が北京に入場した際には、師の李存義とともに山西に逃れ、そこで山西派形意拳の宋世栄、車毅斎から手ほどきを受け、また戴氏心意拳とも交流を行いました。
尚雲祥は郭雲深の指導の下、郭雲深の絶技である大桿子、半步崩拳、丹田氣打を自分のものにし、そこにさらに独自の工夫を重ね独特の風格を形成しました。そして尚雲祥といえば「半歩崩拳遍く天下を打つ」が武林に響き渡るようになりました。
生涯を武術に捧げる
尚雲祥は清の高官である李蓮英の招聘をうけ護院(邸宅の警備)となり、李存義のもとでは北京の沛城鏢局、保定的万通鏢局を主催していました。
李蓮英の邸宅の護院をしていた時には夜勤の時間を利用して李蓮英に武術を指導する傍ら自身も大桿子、大槍、丹田気打、崩拳、および各種の樁功を練っていました。尚雲祥は武術に生涯をささげ、鏢頭(護衛の長)、護院(邸宅の警備)、捕盗官(探偵)、武術教師を一生の生業としました。尚雲祥の絶技は、鉄胳膊尚、鉄脚仏の名で武林に知れ渡りました。
孫祿堂は自著の「八卦掌学」の中でも「尚雲祥の勁力の剛猛さで右に出るものは誰もいない」と彼の勁を賞賛しています。
尚派形意拳の形成
尚雲祥はそれまでに練った河北派形意拳に改良を加えて独自の工夫を加味した形意拳を創設しました。尚派形意拳はいくつかの点において一般的な河北派形意拳と練習方法が異なります。
一つ目の違いは、河北派形意拳の劈を尚派形意拳では鷹捉と言い、劈拳は掌ではなく拳で打ちます。劈は五行の金を現し、金は斧を現します。派形意拳の劈は拳や前腕を使って斧の刃で物を断ち切るかのような勁を打ちます。
二つ目の違いは五行拳の打拳順序です。尚派形意拳の五行拳は五行相生の理に則って鷹捉、劈、鑽、崩、炮、横という順序で練ります。三つ目の違いは十二形拳の鮀形です。鮀は鼉ではなく水面に浮く昆虫を指します。鮀形水面をスイスイ動くな霊活な歩法を用います。
尚派形意拳では脚力の養成を特に重視します。「脚打七分手打三分」というように尚派形意拳も中国北派武術の共通事例に漏れず腿功を重視します。これは拳は脚で打つということを強調ものです。前進する勁、足を踏みつける勁を有効に使って上半身を動かさせ、剛猛で快速な一撃を出すことが特徴です。
動作は、「打法即顧法」(打法はすなわち防御法となる)として攻防が一体となっているも尚派形意拳の特徴です。肘不離肋、手不離心(肘はアバラを離れず、手は心臓を離れない)として、胴体と体の中心部を守る姿勢がとられます。
出洞入洞緊隨身、つまり攻撃でも防御でも体の中心をしっかり守るという要訣も重視されます。胴体に腕を寄せる動作は体を守る意味があるとともに発力のための蓄の動作にもなり、攻防一体の概念です。
尚派形意拳では、腰が肩を押し、肩が肘を押し、肘が手を押すという「三催」の概念で発勁をします。尚派形意拳のは自然と協調のなかで勁を生み出し、それを打ち込むにします。
尚雲祥に関するエピソード
ここでは尚雲祥に関するエピソードや逸話を紹介です。
尚雲祥が武術を学ぶきっかけはある人物に果し合いで負けたことによるものだといわれています。その後尚雲祥は練習を重ね、その中でものちに彼の通り名にも登場する崩拳は練りに練られたものであったといいます。
意地の悪い者たちは裸足でひたすら練習をする尚雲祥の足元に豆をばらまくといういたずらをしましたが、豆は尚雲祥の踏み込みにより粉砕されたりめり込んだりしたという逸話があります。
尚雲祥の名が武術界で通っていたころ、通州に康天心という盗賊がいました。彼は拳銃と軽身功に長じており、官憲も彼を捕まえられずにいました。その頃、密雲県の安という富豪が尚雲祥の武名を聞きつけ彼を自宅に招きました。
尚雲祥が宴に招待されている時、盗賊の康天心が姿を現しました。尚雲祥は即座に剣を抜いて応戦しました。康天心は「高名は伺っていたが本日初めてお会いできた。もし私を倒せたら、今後は盗みは働かない」と言いいました。
尚雲祥と康天心は手を交えること数度、康天心はそのあと姿をくらましました。康天心はしばらく息をひそめていましたが、康天心はまた懷柔県で騒ぎを起こしました。懷柔県の謝という富豪が尚雲祥に助けを求めたため康天心はそこからも姿を消しました。その後康天心は捕えられ処刑されたといいます。
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尚雲祥のその後
尚雲祥は生涯多くの弟子を育て、晩年は故郷の山東省に隠棲しました。そこで自分が生涯をかけて研究した尚派形意拳を伝授しつつ73歳で生涯を終えました。尚雲祥の教えを受けたものには、尚芝蓉、王永年、趙克礼、桑丹啓、李文彬、呉錦園などがいます。
尚雲祥のまとめ
今回は「半歩崩拳遍く天下を打つ」といわれ、尚派八卦掌を創設した尚雲祥について解説しました。
私自身、実は形意拳の「直入する剛の勁」が私の好む「虚をみて隙をつき、計略で相手を誘い、後ろから同士討ちを誘いさせ、手を下さずに勝利を収め、その図らいすらも相手に悟らせない」という戦略と合わないため、敬して遠ざけていた門派でした。
ですが、八卦掌を練習するにあたり、副修としてはじめた尚派形意拳はやってみるとなかなか奥深く、すぐに魅力に取りつかれました。特に形意拳を練ることによる整勁の養成における効能は認めざるを得ないものがあり、私の功夫の底上げに貢献をしてくれています。
私の尚派形意拳は呉錦園が大陸で学び、それを呉国正経由で学んだものになります。