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李存義 ~単刀李の名を馳せた豪気の武人~

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本日は近代武術家の中で最高の豪気を誇った武人の一人である河北派形意拳の達人李存義について解説します。

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李存義の生い立ち

紫禁城紫禁城

李存義は1847年に河北省深県で生まれました。李存義は原名を存毅、字を粛堂といいます。幼少のころ家は貧しく、車引きで生計を立てていました。ですが武術を好み各地を回り長撃や短打等を学んでいました。

途中運よく劉奇蘭に出会い芸を学び、また郭雲深からも形意拳を学び、北京に至っては董海川から八卦掌を学び、程廷華を友として多くの技を学びました。

鏢局の開設

李存義は両江総督督標把総を務め、後に保定にて万通鏢局を開設し、弟子を育て武術を教えました。

義和団への参加

1900年には李存義は53歳にして義和団に参加し、刀をもって前線に赴き八か国連合軍と戦い奮戦しました。この戦いぶりを見た人々は彼を「単刀李」の名で称えました。

山西への退避

義和団の乱の後世情が落ち着くまでの間、弟子とともにしばらく山西へ退避していました。
そこでは代を同じくする武術家たちと交流し形意拳の理解をより深いものとしました。また河北に戻った後も広く師兄弟と交流し武功を大きく発展させました。

中華武士会の設立と武術の指導

1911年には、 天津で、武術精神の発揚のため、馬鳳図や葉雲表、李瑞東とともに、北方最大の武術団体である中華武士会を設立し、上海の精武体育会と連携し、尚武精神の発揚のため努力を怠りませんでした。

国家が中国武術を国術と称することに当たり、中華武士会も天津国術会という名称に変更しました。李存義はまた精武体育会や南洋公学院等でも武術を指導していました。1918年には世界第一の力士と称する白人を北京で破り、政府より一等金盾奨章を授与されています。1921年には李存義は山東軍閥の馬良の部隊で形意拳を教授しました。

李存義が開いた万通鏢局は資金繰りが困難になり最終的に閉鎖を余儀なくされます。これは、李存義が金銭に困っている者に理由を聞かずに施しをしたことも関係があるといわれています。万通鏢局閉鎖後、彼は数多くの門弟に形意拳を教え、形意拳の普及発展に尽力し1921年、74歳で生涯を終えました。

李存義の教えを受けた人々

李存義が生涯に形意拳を指導した弟子はとても多く、有名な弟子には、尚雲祥、孫祿堂、周玉祥、李彩亭、王俊臣、李東園、陳泮嶺、田鴻業がいます。

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李存義の著作

河北の風景河北の風景

李存義は形意拳の教材として 五行拳譜・連環拳譜・拳術教範を著しています。

李存義の逸話

河北の風景河北の風景

ここでは李存義にまつわる逸話をいくつか紹介します。

ある夏、李存義が家に帰ろうとしていたところ、武強県にて強盗に遭遇しました。李存義は金がほしいなら車に乗って取りに来いと言い、一人が飛び込んだところ、センスを一振りで強盗は車外に掘り出されてしました。また一人飛び乗った別の強盗も車外に出されました。強盗の頭目は、車に乗っている人物が「単刀李」だと気づき無礼を詫びました。

ある日李存義は涿州で一人でいるときに強盗に襲われました。強盗はこん棒を猛打してきましたが、李存義は慌てす焦らず柳の小枝で強盗を翻弄しました。最後には強盗は息を切らし、ひざまずいて許しを請いました。

李村議は保鏢として各地各省を回り、盗賊にあえば刀で応戦し、負けること知らずでした。また義侠心に熱い性格で多くの人間をかくまったため「単刀李」という異名で世間から呼ばれるようになりました。

まとめ

紫禁城紫禁城

今回は河北派形意拳の達人で「単刀李」で有名な李存義について解説しました。李存義は多くの弟子を育て、河北派形意拳を今日まで普及させた近代武術家の中でも最も有名な人物の一人です。また義和団の乱では八か国連合軍との激戦を繰り広げた愛国の士です。

皆さんが学んでいる形意拳の中には、李存義の系譜を受け継ぐものも系統もたくさんあります。皆様が練習されている系譜にも李存義の意志が入っているかもしれません。

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