本日は近代の中国武術名人録として臂聖の通り名で呼ばれた通背拳の達人、張策について紹介します。
張策の生い立ち
張策は1866年に直隸省(河北省)香河県馬神廟村で生まれました。字を秀林といいます。
彼は幼い頃から、父の張錦奎から家伝の戳脚、二郎拳、黒虎拳等を学んでいました。張策は毎朝東大廟で張大相のもと練習に励んでいました。
熱心に練習し1年が過ぎたころ、張策の成長と進歩を見た父の張錦奎は鍛冶屋に頼んで一側の鉄靴と鉄のベストを作らせました。張策が7歳の冬父親が亡くなり、その悲しみがもとで病に伏せた母親も張大相に息子を託して亡くなってしまいました。その後彼は毎朝三時に起床し練習に励んでいました。のちに遊僧から五猴通臂拳を習得しました。
北京で楊氏太極拳を学ぶ
張策は12歳で北京に移り、楊氏太極拳の二代目である楊健侯から20年近くにわたって太極拳を学びました。
陳慶と王占春から通臂拳を学ぶ
またこの時通臂拳の大家である陳慶につき祁氏通臂拳も学んでいます。さらに、陳慶の弟子である王占春からも芸を学び、張策は二代の技を継承しました。この技術はのちの張策の発展の確固たる基盤になりました。
王占春がなくなった後は、韓姓の老道士からにも技を学びました。この頃には師の妙技を会得し、通臂拳の奥深しさにも精通し境地に至っていました。片足20kgの鉄靴を履いていたことから、武術界においては「臂聖」、「鉄鞋」という通り名で呼ばれていました。
太極拳を融合させる
張策の名声は北京と天津一帯に響きわたり、またこの時楊澄甫と交流を深めました。張策は通臂拳と楊式太極拳の技術を融合させ、これらをまとめて五行通臂拳とし華北や東北一帯に広く伝えました。
奉天軍閥での指導
張策は1924年から奉天軍閥の張作霖の招聘を受け奉天(瀋陽)で保鏢となり、張作霖の息子である張学明と張学思に技芸を指導しました。1928年に張作霖が関東軍の謀略により奉天郊外の皇姑屯で爆死した後、張策は奉天国術館の副館長に着任します。
北平(北京)や南京での武術指導
1931年の9·18事件(柳条湖事件)にて北平(今の北京)に移動後は北平国術館で指導を行いました。張策は形意拳の李洛能、郭雲深、孫祿堂、八卦掌の董海川、太極拳の楊露禅や楊班侯、楊健候につづく、重要な武術の伝人の一人として認識されています。
1933年には南京の中央国術館にて第二回国術試験が実施され、国民政府は張策を南京に招聘し副総審判長に任じ、張策はその後も中央国術館に留まり武術の指導を行いました。張策の指導は呉氏太極拳の呉図南等の他の門派の門人にも及びました。張策は孫禄堂や呉鑑泉、褚民宜、許禹生、紀子修等の武術家とも熱く交流し、特に孫祿堂とは親しく交際をしていました。
張策の通臂拳の伝播
1934年、張策は68歳で亡くなりましたが、彼の遺した五行通臂拳は大陸地区にとどまらず台湾地区にまで伝播を広げました。張策は保守的な慣習を破り、秘伝と技芸を広く弟子たちに伝えました。一生涯を武術の吸収と発展に捧げ、通臂拳と太極拳をも融合させました。
張策の指導を受けた人々
張策の門弟には,李萬春、馬熙春、董秀生、符懋堃、李樹堂、張以謙、韓占鰲、周景海、週学伊、張殿華、李祥雲、強雲門、呉図南、張学明、張学思などがいます。また台湾地区では康國良が張策の通臂拳を伝えたことにより台北地区を中心に張策の技は広く普及しています。
張策のまとめ
今回は五行通背拳を広く普及させ、臂聖の通り名で呼ばれた通背拳の達人、張策について解説しました。
張策は私のに五行通背拳の基本功を教えてくれた田貝師叔の師爺にあたる人で私自身も思い入れがあります。今回このブログ作成にあたり、中国語の張策に関するいろいろな資料を参照しました。
生い立ちや武術研鑽の軌跡について、私が知らない情報もあり改めていろいろなことがわかりました。エピソード的なものや確証が低そうな情報はある程度割愛しましたが、これからも自分の系譜にちかいところから調べていきたいと思います。