今回は中国武術近代名人録として劈掛拳と八極拳の名人である馬英図を紹介します。
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馬英図の生い立ち
馬英図は1898年に河北省滄州孟村で回族の家庭に生まれました。幼少から馬鳳図とともに家伝の劈掛拳や八極拳を学んでいました。
8歳の時には、祖父の計らいで羅瞳に赴き、羅瞳八極拳の張景星に八極拳と六合大槍を学びました。呉家、馬家は回族、張家は漢族であり、それぞれが独自に発展を遂げていました。
呉家では漢族の八極拳を学ぶため馬英図を張景星に拝師させたともいわれています。馬英図は張家で八極拳と六合大槍の全伝を学び、、張玉衛、李書文、韓化臣とともに羅瞳四傑の一人とされていました。
中華武士会への参加と従軍
12歲の時には天津中華武士会で八極拳を表演し見事な演武を披露しています。1914年より兄馬鳳図と共に中国東北地方に赴きました。その後馬英図は奉天警官学校に学んだ後、兄の馬鳳図とともに馮玉祥の西北軍に参加し参謀などの職に軍歴を重ねました。
馬英図は西北軍に属しているとき、滄州出身者を率いて決死隊を編成し、大刀とモーゼル銃で血路を開き、天津で奉天軍閥の軍を撃退するという軍功をあげました。
南京中央国術館の創設に尽力
1927年張之江により南京に中央国術館が創設されると、馬英図は西北軍の将校として国術館で創設者の一人となりました。1928年には中央国術館が正式に成立し、馬英図は少林門の科長の一人となりました。
また第一回の全国国術考試で規則を制定し、また散手と短兵器、長兵器の対抗試合も実施し、馬英図自身も実力を披露し実力派の代表人物として有名になりました。中央国術館の教師となった後は郭長生とも技芸の交流を行い、八極拳、劈掛拳、苗刀、大槍等を指導しました。
馬英図は八極拳、劈掛拳、翻子拳、戳腳などに優れ、兵器では双手刀や剣術、棍術を得意としていました。また摔角や重量挙にも長じていたといいます。馬英図は武術において実用技術を特に重視し、長短を兼備、剛柔の勁道を両備していたため連戦連勝でした。彼に指導をうけた生徒は甚だ多く、曹硯海、馬承智、李元智、何福生、牛增華、韓俊元などがいます。
中央国術館でも八極拳、劈掛拳、双手刀、大槍等を指導し、張文広、何福生、温敬銘、李元智等が学生として指導を受けました。八極拳、劈掛拳が中央国術館の正科に設定されたのは馬英図の功績が大きいです。
西北軍での活躍
馬英図が所属していた西北軍は装備が貧弱で重火器等は無きも同然でした。そこで馬英図は兵士の訓練を行う際に、「大刀(両手持ちの刀)」による「劈殺(斬撃)」を実戦技術として指導しました。戦争では大刀隊による陣地強襲が西北軍の特徴となりました。抗日戦争当時、馬英図は西北軍の武術教官となり、大刀隊を組織し練習を行っていました。
西北軍が採用した大刀は一般の単刀より2尺ほど長く、柄には鉄環がつき、赤と緑の帯が飾り付けられたものでした。使用時には両手で握り、斬撃することもできれば、槍のように跳ね上げたり、棍のように殴打することも可能です。馬英図により育成された大刀隊は日本の侵略軍の前で勇敢な戦いをし日本軍を恐れさせています。
1937年には二十九軍は万里の長城の城門を守備していました。ある雪の日、日本軍の猛烈な砲火の中、西北軍は大刀と手榴弾で近接戦を繰り広げ喜峰口陣地を奪還する功績をあげました。翌日には日本軍は砲撃と歩兵による連携戦術にて二十九軍に猛攻撃を加えてきました。
二十九軍はこれに応じて日本軍の陣地に肉薄し白兵戦を繰り広げました。そこでは大刀が大きな活躍を見せ、日本軍を蹴散らしたといわれています。馬英図の大刀隊500人は日本軍の宿営地に夜襲をかけ多数の日本軍を惨殺することに成功しました。その後馬英図は1949年には軍務を離れ甘粛省で暮らしました。
馬英図のまとめ
今回は、八極門の代表人物の一人である馬英図について解説しました。馬英図は八極拳を南京中央国術館の正科にし普及させた功労者でもあり、また中華民国国軍の英雄でもあります。馬英図の八極拳は今でも各派に取り込まれ練習されています。