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衛笑堂 ~実用性を重んじた八歩螳螂拳の伝人~

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これまで近代中国武術の名人を紹介してきました。今回は八歩螳螂拳を台湾地区に普及させた衛笑堂について紹介します。

八歩螳螂拳とは

螳螂螳螂

八歩螳螂拳は、山東省煙台の三人の武術家、即ち通臂拳の陳德善、八卦拳の王中慶、螳螂拳の姜化龍が新たに作り上げた螳螂拳です。八歩螳螂拳は、姜化龍によって体系が構築されたのち、馮環義がそれを受け継ぎ、さらに衛笑堂に技芸が継承されました。

衛笑堂の生い立ち

万里の長城万里の長城

衛笑堂は本名を延桐、字を梓生といいます。1902年に山東省の棲霞県で生まれました。衛笑堂の実家は商いをしており裕福であり、父は教育にも熱心な人物でした。

父は学問の教師を自宅に招き、衛笑堂に三字経、百家姓、千宇文などの教授を受けさせました。衛笑堂の父親の衛稽雲も現地では有名な武術家でした。衛笑堂は幼少のころから武術と接する環境で育ち、本人も武術を好み練習に励みました。

馮環義から八歩螳螂拳を学ぶ

衛笑堂は当初地功拳(地趟拳)を学んでいましたが、のちに馮環義より八歩螳螂拳を学び、その妙技を得ました。20歳にはすでに福山県に武術指導に赴くほどの実力を備えていました。

上海フランス租界で八歩螳螂拳を指導

23歳の突起、軍の武術教官として招聘され、29歳には上海のフランス租界で八歩螳螂拳を教えるまでになっていました。その時代には精武体育会の太極拳教師出会った呉鑑泉と交流を持ちお互いの技芸を交換しあい、呉式太極拳と推手の方法論を学び取りました。

衛笑堂は上海で武術を教えること七年に及びましたがその後山東の蓬萊に戻りました。九一八事変では衛は自衛隊の大隊長兼荊山鄉の鄉長となり、住民の家財と身の安全の確保に奔走しました。

韓国を経て台湾へ

中国は第二次世界大戦をかろうじて戦勝国として乗り越えましたが、1945年からは一時的に共闘していた中国国民党と共産党の内戦が本格化しました。

1949年には国民党は共産党の人民解放軍に決定的な敗北を喫し、大陸の大部分から撤退、臨時首都を台北に定めました。その混乱のなか、衛笑堂は韓国に渡り、友人を助けるために現地の韓国人と衝突を起こしたりということもあったようです。

その後衛笑堂はいったん山東に戻った後、1950年には台湾に転居しました。

八歩螳螂拳の指導

台湾に転居してからは餃子館を開業し生活の糧を得ながら、余暇を見つけては植物園で武術を練習していました。初めは一人で余暇の傍ら練習をしてましたが、衛笑堂の功夫の高さを聞きつけて学生が集まり始めました。そのころから衛笑堂は正式に植物園で武術を指導するようになりました。

後に衛笑堂は台湾大学の国術サークルから指導老師として招聘されました。他の何か所かの高専の武術サークルでの指導とともに指導を行うようになっていました。

台北での生活

衛笑堂は少しばかりの蓄えができたところで中和の南勢角にある華新街四十六巷五弄六号にあるアパートの一角を購入しそこで一人暮らしをしていました。普段は早朝にはバスで植物園に向かい学生に武術を教え、10時に帰宅し昼食をとる、という規則正しい生活を送っていました。

衛笑堂は20~30個ほどマントウを作りおきし食事の際にはそれを2個づつ蒸して食べていました。普段はテレビよりもラジオでニュースを聞いたり京劇を聴くのを好んだといいます。

衛笑堂は余暇には友人と談義をするのを好みました。特に八卦門の宮宝斎とは仲が良かったといいます。

病魔との戦いと逝去

衛笑堂は形が屈強で食欲も旺盛でしたが、70~80歳のころ皮膚病に侵され、和平病院、三軍総病院、台大病院への入院を重ねました。

退院後も生活の世話をする者はいないため栄養不良に陥り、体力も衰えていきました。1984年の3月2日、衛笑堂は心臓病による発作のため中和市の自宅で息を引き取りました。

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衛笑堂の練習内容と指導方法

台北の風景台北の風景

衛笑堂は幼少のころより地功動作を練り、腿法も練習していました。普段は架子や套路の練習以外にも、サンドバッグを打ったり、石の重りを持ち上げたりといった練習も行っていたようです。

指導方法はというと、一般的に最も大事なところは教えたがらない伝統武術の老師のなかで、衛笑堂は自分の持てる技術をすべて教示していたようです。

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台湾大学国術サークルによる講和

台北の風景台北の風景

衛笑堂は台湾大学の国術サークルの教練として招聘された第一回目の練習で以下のような言葉を学生に発しました。

「私に拳術を学ぶために集まった諸君、この拳術はそもそもが格闘のためのものである。」
「もし健康のためであれば私に学ぶ必要はない、体操やヨガをやったほうがいい。」「外で衝突が起こった時、もし護身の技術がなければ打たれてしまうが、功夫があればそうはならない」

つまり、「拳」は技撃が目的であり、技撃が武術の本質である、と衛笑堂は言いました。

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衛笑堂にまつわる逸話、エピソード

台北の風景台北の風景

衛笑堂の八歩螳螂拳の功夫は相当なものでしたが、本人は「私のようなものは大陸では二流か三流のうちの一人」と語っていたといいます。

民国67年ゴロ、大陸地区の政策が変更され、人民の香港経由による通信、郵便の往来が可能となりました。そのころ突然山東から衛笑堂へ一通の手紙が届き、そこには孫の写真が同封されていました。

何度かの連絡のあと、大陸の子供たちは父が故郷に戻ることを希望していましたが、衛笑堂は帰郷をしたいとは思いませんでした。ただし、香港で面会を希望していました。衛笑堂は出国を申請しましたが許可が下りず、結局子女に会うことはかないませんでした。

衛笑堂は交友関係も広かったですが、命の駆け引きのある実戦経験の持ち主でした。

20歳の時、福山県に拳を教えに行った時、よその武館に武術を学ぶものが棍や刀を持って現れ「衛延恫(衛笑堂の旧名)よ出て来い!」と叫びましたが、本人はたまたま不在、衛に、俺たちが来てやったぞと言っておけ」と言い放ち立ち去りました。その後戻ってきた衛笑堂が踢館(道場破り)が来たと知ると衛は三節棍を持ってその武館に乗り込みました。

民国20年、衛笑堂は朝鮮半島に赴きました。そこで飲食店を経営する崔という友人が4,5人の韓人に殴られ、「韓人が棒で殴りかかってきた」と衛笑堂に助けを求めてきました。彼らは衛笑堂にも矛先を向けてきており、ホテルに逃げ込んだものの、棒で窓のガラスを割り侵入してきました。

衛笑堂はドアを開けて外に飛び出し、逃げながら「通天掌」(短い峨嵋刺のような形状)という武器を手に持ち応戦しました。韓人は棒で頭を打ってきましたところを、躱し反撃したところ、ちょうど通天掌が相手のこめかみを直撃、相手は倒れました。

そのやり取りをみた人が、「中国人が韓人を打ちのめしている」と叫んだため、周りに人だかりができ、衛笑堂は取り囲まれました。衛笑堂は周りの人間を打ちのめし、囲みを脱することに成功しました。

彼は友人の助けで山東に戻ることに成功しました。次に韓国を訪れたのはその17年後、当時の衛延桐が衛笑堂という名前になってからのことです。

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衛笑堂の訪友歌

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八歩螳螂拳には衛笑堂が創作した物として以下の「訪友歌」が伝えられています。

本人武技不甚優、江湖路上訪過友 己の武芸は未熟なり、因りて江湖の友を歴訪す。
二十三歲到滄州,訪到明家袁金棟 二十三ににて滄州に至り、明家の袁金棟を訪ねる。
武技高強真明手,彼此交手吾不敵 武技高強で真の名手なり、手を交えるも吾敵わず。
朋友交情更深厚。        厚い朋友の情を交わす

由此回家人了伍,軍隊之中任教授 帰宅し軍務についてから、軍隊の中で武術を教授す。
煙台訪過老張武,此人力量甚少有 煙台に老張武を訪ね、その力量は計り知れない。
二次又訪郝桓信,鐵掌練的更優厚 更に郝桓信を訪ねたが、その鉄掌更に重厚なり。
福山訪過吉春亭,螳螂拳中為高手 福山に吉春亭を訪ねた。まさに螳螂拳の達人なり。
大連去訪孫之結,為人慷慨好交友 大連に孫之結を訪ねた。交わりをかわし友人となる。
上海訪過紀中德,山東會館任教授 上海に紀中徳を訪ねる。山東会館にて指導をしている。
東北又訪趟鳳亭,奉天一帶是好手 東北に趟鳳亭を訪ねる。奉天一帯の名人である。
煙台見過李永德,七十告老回滄州 煙台にて李永徳に会う。七十にして滄州に戻る。
武林高手遍天下,比其本人拉低手 武林の高手は天下にあまた、自分の程度を思い知る。
而後又訪張發才:與他門徒林九州 その後張発才を訪ねる、彼は林九州の門徒である。

この「訪友歌」は衛笑堂が真に武術を求める精神が刻まれています。謙虚な態度で誠意をもって教えを請えば友の絆ができるということです。

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衛笑堂の著作

台北の風景台北の風景

衛笑堂は以下の著書を残しています。

  • 実用螳螂拳
  • 実用螳螂拳続集
  • 実用螳螂拳秘岌

實用八步螳螂拳秘笈は左顯富‧楊清容の校正により,2011年に逸文出版社より出版されたものです。

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衛笑堂の教えを受けた人物

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衛笑堂の教えを受けた者は多いですが、その中から有名な人物を紹介します。

王秋雄、蘇昱彰、陳國欽、徐紀、左顕富、張光宏、林松賢、彭韓萍、王傑、田貝康広、横山和正等です。

衛笑堂の技芸を学べる場所

台北の風景台北の風景

衛笑堂の技芸学べる場所に「八歩功夫学苑」があります。

八歩功夫学苑

八歩功夫学苑は衛笑堂から八歩螳螂拳を学んだ左顕富が1992年に設立した国術館です。左顕富は国立台湾大学を卒業後機械メーカーで安定した会社員生活を営んでいましたが、八歩螳螂拳の発揚のため台北市の万隆地区に八歩功夫学苑を立ち上げました。

八歩功夫学苑では、八歩螳螂拳のほかに、衛式太極拳、金丹派左家氣功と五行通背拳の基本功が学べます。

八歩螳螂拳は姜化龍、王宗慶、陳徳善が考案し、馮環義に伝えれその後衛笑堂に伝承されたものが、系統的に現存する八歩螳螂拳です。

台湾地区において、八歩螳螂拳の套路は伝播しているため学べるところがありますが、八歩螳螂拳として系統立てたものを習うのであれば八歩功夫学苑が唯一の選択肢となります。

八歩功夫学苑

住所:台北市文山区興隆路一段55巷27弄24号1F
電話:02-2933-9651

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衛笑堂のまとめ

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今回は衛笑堂について解説しました。衛笑堂は八歩螳螂拳を系統立てで伝承した人物であり、その八歩螳螂拳は台湾地区において現在も伝承されています。八歩螳螂拳は螳螂拳の支派の中では新しいタイプの螳螂拳で、套路の構成は他の螳螂拳と大きく異なります。

衛笑堂の技芸は現在も台湾地区で習うことが可能です。興味がある方は八歩功夫学苑やその下位組織(台湾大学八歩螳螂社等)に連絡し習ってみてはいかがでしょうか。

このブログが皆様の螳螂拳の研究の参考になれば幸いです。

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