1949年の政変により北方の武術家たちの多くが台湾地区に渡りました。台湾地区にわたった武術家の多くは山東人でした。理由は山東半島は海に面し後期まで国民政府の勢力下にあった青島港から大陸を脱出できたからです。
今回は、山東一条槍、萊陽の三山(李崑山、王玉山、崔壽山)の一人として有名な梅花螳螂拳の李崑山を解説します。
李崑山の生い立ち
中国の風景李崑山(字は進玉)は1894年に山東省萊陽県の由格荘村(現在の萊西市)にて生まれました。天性に頭が切れる少年であり、初等教育を修了した後は萊陽中学を卒業しました。
李崑山の武術修行
中国の風景李崑山は12歳から伯父の李銘閣とともに家伝の長拳や刀、槍、剣、棍や鉤、鞭等の各種兵器の練習を開始しました。20歳の頃には彼の武術の造詣や兵器操作は熟練の域に達していました。
当時、螳螂拳で有名となっていた姜化龍が煙台から帰省し、故郷で武館を設立しようとしていました。1911年、李崑山が17歳の時叔父の李丹伯が重病を患ってからは姜化龍と宋子德に師事し螳螂拳を練りました。
李崑山が姜化龍と宋子德から螳螂拳を学ぶことになる至る理由は、伯父の李丹伯と姜化龍と宋子德が義兄弟であったためです。1913年に李丹伯が逝去した後は、姜化龍と宋子德から螳螂拳を専門に学ぶようになりました。
李崑山が姜化龍に師事したときには姜化龍は高齢でしたが、それでも李崑山は姜化龍の深い功夫に敬服し、正式に姜化龍の門下で螳螂拳を学びました。
李崑山は姜化龍のもとで摘要や八肘、崩歩、乱接や梅花路などを学びました。彼は六合棍や八卦攔門刀等の兵器、さらに八段錦や三回九転排打功等の内功も習得していました。
当時、梅花螳螂拳の姜化龍と宋子德がそれぞれに武術練習場を構え拳術を指導していました。李崑山が姜化龍を師としたころには萊陽県崔疃の王玉山と諸陸の崔寿山も宋子徳門下に入っています。
李崑山と王玉山、崔寿山は厳しい指導受けること10数年、ついに功夫の神髄を得ました。彼ら三名の名前は萊陽の「三山」として今も天下に轟いています。李崑山は後に各地の名人を訪ね、25歳の頃には東北の大連、錦州にも赴き技を磨きました。
1926年には李崑山は県の守備団の隊長になりました。1928年には黄県の国術館の教官となります。1930年には黄県の警察隊隊長となりました。この時期に李崑山は六合螳螂拳の丁子成と面識を得ています。
李崑山は槍術を得意としました。1931年には李崑山は李景林が済南に立ち上げた山東省国術術館で指導を行っていましたが、その後、1933年に李崑山は南京で開催された全国国術考試を受け、一本の槍を以て長兵器組において優勝しました。
この時に李崑山は「尚武精神」と書かれた銀の盾を授与されました。
また1933年には李崑山は王玉山、崔寿山と劉竹園、趙式亭、張仲臣、於鑒舟らと合同で萊陽城の北門側に萊陽国術館を創設しました。李崑山はこの時、武術の実績を買われ副館長となり教務部門を担当しました。
彼は国術館を創設した後、抗日戦争のために従軍し、李崑山自身も52人の生徒を引き連れて済南に赴き日本軍との前線に立ちました。李崑山は萊陽に戻った後は萊陽国術館の館長に推挙され6年間館長を務めました。
1934年から、李崑山は萊陽県店埠区鄉農学校の校長、萊陽県二区区長、平度県常備自衛大隊、平度県国民兵団少佐副団長、海陽県自衛隊少佐、海陽県常備自衛団中佐副団長、十区西南鄉農学校校長等を歴任しました。
抗日戦争では銀の盾を家の地下に埋め、その他はすべて燃やし、戦列に参加しています。李崑山は抗日戦争時には自身の学生を引き連れて軍事力の優勢な日本軍に打撃を与え、本人も地方武装大隊の副団長の地位となりました。
抗日戦争に勝利後は李崑山は国民党と軍隊の中で勤務していました。
西北軍での武術の指導
中国の風景1934年当時、李崑山は萊陽十区西南鄉の學校の校長をしていました。その際には西北軍の兵士に「四式槍」と「四式刀」を指導しました。
台湾への転居
中国の風景1949年の政変によって、李崑山は劉竹園らとともに国民党軍と行動を共にし青島から台湾に移りました。台湾では基隆に居を構え「基隆国術館」という武館を設立し螳螂拳を指導しました。1982年、李崑山は転居先の台湾で89年の生涯を閉じました。
李崑山が伝えた套路や内容
中国の風景李崑山が台湾地区に伝えた套路には以下のようなものがあります。
- 插捶
- 小虎燕
- 白猿偷桃
- 梅花手
- 梅花落
- 乱接
- 摘要一段
- 摘要二段
- 摘要三段
- 摘要四段
- 摘要五段
- 摘要六段
- 八肘一段
- 八肘二段
- 八肘三段
- 鉄門靠壁
- 小五手
- 練武掌
- 美人照鏡
- 七十二把擒拿
- 二十四式槍
- 二十四式刀
- 六合棍
- 降龍棒
- 八卦攔門刀
- 達磨剣
- 三才剣
- 奇問十三剣
李崑山の伝人たち
中国の風景李崑山に教えを人物には以下のような者がいます。萊陽では張寿山、張継先等。また張炳斗は李崑山の外孫であり幼少時に李崑山に学んでいます。台湾では李鴻傑、李登五(息子)、崔維国、于峨一、李純徳らがいます。
李崑山にまつわるエピソード
中国の風景李崑山は、70台になっても自身で学生を指導し、自宅近くか国術館で練習をしていました。短い棍で全身を打つ練功を長年行っていました。
李崑山は性格は温和でしたが武術の指導となると非常に厳格でした。自身の学生には十大要義(遵守すべき事項)を指導し徳育も併せて指導していました。
李崑山のまとめ
中国の風景今回は萊陽の「三山」の一人として有名な李崑山について解説しました。李崑山は政変により台湾に転居後は基隆に定住し多くの弟子を育てました。私の先輩たちにも台北から基隆の李崑山に技芸を学びに通っていた人物が多くいました。
どうやら私が台北地区で学んだ套路と基本功のいくつかには李崑山の系譜に連なるもののあるようです。それがいつ、だれが、どのように李崑山から学び、どのように伝えられたのか、それは今後の私の研究課題です。
このブログが皆さんの螳螂拳の研究の助けになれば幸いです。