以前、このブログで螳螂拳の紹介させていただいたことがあります。
本日はその螳螂拳の支派の一つであり、台北地区を中心に伝承されている八歩螳螂拳について解説します。
目次
八歩螳螂拳とは
八歩螳螂拳は北派螳螂拳の支派の一つです。中華民国初期、螳螂拳に精通した姜化龍と、八卦拳に精通した王宗慶、形意拳と通背拳を修めた陳德善が研究し創設した新しい螳螂拳です。八歩螳螂拳の名前の由来はいくつかの説がありますが、一つは八種の歩法を使うこと、あるいは抜歩という歩法を特徴的に用いるところから取られたとされています。
八歩螳螂拳の特徴
八歩螳螂拳は山東省の螳螂拳の一派であり、以下のような螳螂拳のオーソドックスな技術、要求を包括しています。特徴を上げるとすれば以下のものが挙げられます。
- 長短兼備 長距離と短距離の攻防技術を兼備している
- 剛柔相濟 剛と柔双方を備える
- 勇猛快速 勇猛であり動作が快速である
八歩螳螂拳はそれ以外に、八卦、通臂、形意の優れた部分を融合させ発展させたものです。
具体的は八卦拳の歩法と身法と円転、通臂拳の鬆柔と長撃打法と身法、形意拳の高精度で直線的な剛勁が内包されたものとなっています。
八歩螳螂拳は七星螳螂や梅花螳螂と同じ山東螳螂拳の系譜を継ぐ螳螂拳ですが、摘要については他の支派とは全く異なる摘要を持っています。また八歩螳螂拳は螳螂拳の中では歩幅も大きく、伸びやかな風格を持っていることも特徴です。
八歩螳螂拳は、八卦、通臂、形意と融合した螳螂拳とされています。〇〇螳螂拳という銘を打つ螳螂拳はほかにもいろいろありますが、よく見てみると〇〇拳と螳螂拳の套路を併修しているだけのものがあったりと融合の程度は様々です。
八歩螳螂拳では、どの動作が八卦、どの動作が形意の意匠を残すということが難しい程度に高度に融合が行われいることが特徴です。
八歩螳螂拳の拳理
八歩螳螂拳の拳理は他の螳螂拳と大きく変わるところはありませんが、八歩螳螂拳の練習体系に組み込まれている拳理を紹介します。
八歩
- 抜歩
- 竄歩
- 疊歩
- 入環歩
- 登塌歩
- 挪歩
- 行歩
- 拖歩
八剛
八剛とは勁を発して攻撃する八種類の手法です。
- 衝
- 撞
- 崩
- 插
- 棍
- 挑
- 劈
- 砸
八剛を応用した招式には以下の八種類があります。
- 泰山壓頂
- 迎面直捅
- 疊肘硬拱
- 圈捶帶崩
- 鐵臂雙棍
- 轆轤硬攻
- 翻車硬衝
- 摔捋兩分
十二柔
十二柔とは、自身の急所を守るための十二種の重要な防御方法です。十二柔も基本手法とそれを応用した招式の概念に分かれます。
- 勾
- 搏
- 採
- 掛
- 沾
- 黏
- 貼
- 靠
- 閃
- 轉
- 騰
- 挪
これらの応用動作は以下の十二種類があります。
- 見剛而回手
- 偷手而入手
- 見接手而滾手
- 圈捶前掛手
- 掛手而勾手
- 見採手而入手
- 見來手而搏手
- 磕手而入手
- 撲手而入手
- 挑手而入手
- 提手而入手
- 見入手而開手
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八打八不打
八步螳螂拳は他の螳螂拳と共通する概念として八打八不打という技撃の要訣があります。
- 八打 打てば強烈な疼痛を引き起こし戦闘能力を奪う箇所
- 八不打 打てば生命の危機、または大きな後遺症を伴う箇所
のことを指します。八打と八不打はともに至近距離にあり、状況に合わせて打ち分けるようにします。
八打
- 双睛眉頭
- 唇上人中
- 撩陰高骨
- 穿腮耳門
- 背後骨縫
- 肋內肺俯
- 鶴膝虎烴
- 錯骨分筋
八不打
- 太陽為首
- 双風灌耳
- 咽喉穿嗓
- 背後脳嗡
- 左右両脅
- 両腎對心
- 胸骨剣突
- 海底撩陰
八歩螳螂拳の套路
八歩螳螂拳の套路は多くはありませんが以下のようなものがあります。
- 七手
- 力劈
- 小翻車
- 大翻車
- 摘要一至六段
- 対打
八歩螳螂拳の代表人物
八歩螳螂拳の代表的伝承者は以下の通りです。
姜化龍
姜化龍は梅花螳螂拳の大家として有名ですが、彼は上で解説した八卦拳の王宗慶と形意拳と通背拳の陳德善とともに八歩螳螂拳を考案した創設者です。
馮環義
馮環義は螳螂拳の姜化龍、八卦拳の王宗慶、形意拳と通背拳を修めた陳德善が考案した八歩螳螂拳を伝承した武術家です。馮環義の技芸は弟子の衛笑堂に伝えられました。
衞笑堂
衞笑堂は1901年生まれ、山東省棲霞県六区荊山郷出身の武術家です。衞笑堂は幼少時に地趟拳学び、16歳の時には父親が自家に招聘した馮環義から八歩螳螂拳を学びました。
馮環義のもとで4年間八歩螳螂を学んだ後、衞笑堂は各地で螳螂拳を教授して回りました。29歳には旅滬体育会からの招聘により上海のフランス租界で八歩螳螂拳を指導し、精武体育会の太極拳教師である呉監泉とも交流を持ち呉氏太極拳を習得しました。
衞笑堂は1948年に韓国に渡り、その後1950年に台湾に移住しました。台湾に移住後は台北で山東餃子館を経営し生活の糧にしていました。衞笑堂は生活のために山東餃子館を営む傍ら、余暇を利用して植物園で練習をしていました。
やがて衞笑堂の功夫の噂は台北に響き渡り、多くの練習性が衞笑堂に教えを乞うようになりました。衞笑堂はのちに台湾大学や東南工専、致理商専などの武術サークルに老師として迎えられ指導に当たるようになりました。
衞笑堂は螳螂拳の実用性を重視する指導方法を取っていました。練習中にも「武術の練習は打つためにやるものである、もし健康のためであれば私に学ぶ必要はない、体操やヨガを習いに行くとよい」という意味合いの言葉を学生に残しています。
衞笑堂は、実用螳螂拳、実用膛螂拳続集と実用膛螂拳秘岌という著作を残しています。
左顕富
左顕富は1949年雲南省に生まれました。小学校の校長が武術を練習していたこと、自身が病弱であったことから武術に関心を持っていたものの接する機会がなく少年期を過ごしました。
左顕富は1969年に台湾大学に入学後、「国術社」(武術クラブ)に入り、正式に武術を学び始めました。台湾大学の国術社では当初蘇昱彰が指導をしていましたが、左顕富はのちに休日には植物園で衞笑堂から直接指導を受けるようになりました。
国術社が設立されて2年後には、衞笑堂が直接台湾大学で指導を行うようになっていました。左顕富は衞笑堂を生涯の師とし八歩螳螂拳の研鑽を続けました。
左顕富は、八歩螳螂拳の武芸を習得したのみならず、衞式太極拳など衛笑堂の技芸も継承しました。そして1992年には台北市万隆に「八歩功夫学苑」を設立し、八歩螳螂拳の指導に当たっています。
陳国欽
陳国欽は1948年生まれの台湾人です。はじめ王松亭の弟子で永和市の住民代表である陳春成から少林拳を学んでいましたが、後に衛笑堂から八歩螳螂拳の指導を受けるようになりました。
陳国欽は武壇推広中心を主宰していた劉雲樵からも八極拳や八卦掌の指導を受けています。現在は台北市信義区で密教を中心に指導を行っています。
田貝康広
衞笑堂に教えを受けた者の中には外国人もいます。その中には田貝康広という日本人も含まれています。田貝康広は衛笑堂から八歩螳螂拳を学んだあと、台湾に渡った北方武術の名師を訪ねて歩きました。
そこで通臂拳の張策の弟子である康国良が台湾にいるという情報を聞きつけ、永和市の中正橋のたもとにいた康国良を訪ねました。抗日戦争で苦渋を舐めた経験がある康国良は、当初田貝の要請を断りましたが、最終的には田貝は康国良から通臂拳を学ぶことができました。田貝は花蓮県に住み技芸を磨いていましたがのちに日本に帰国、埼玉県で逝去しました。
横山和正
横山和正は神奈川県川崎市出身の日本の空手家で、沖縄小林流研心国際空手道館長です。横山和正は幼少のころより剣道や柔道、空手などの武道に親しみ、レスリングやボクシングも経験しています。
高校卒業、台湾へと渡り衛笑堂より八歩蟷螂拳などを学びました。それから空手の源流を求めて沖縄に渡り、沖縄小林流で空手を修めています。その後は米国に渡り、空手の指導を行いました。
王傑
王傑は湖南省の湘鄉県の出身です。王傑はもともと岳家拳や家伝の武術を学んでいましたが、台湾に移ってから衞笑堂ついて八歩螳螂と呉式太極拳を学びました。王傑は八歩螳螂拳を各種の武術を融合させ実用武術として大成しています。
彭韓萍
彭韓萍は1961年に台北市で生まれました。彭韓萍は衛笑堂から八歩螳螂拳を習得したほか、少林拳や酔拳、九節鞭なども収めています。台北地区で外国人を含めた多くの学生に螳螂拳を指導した彭韓萍でしたが、若くして交通事故で惜しくも命を落としています。
八歩螳螂拳のまとめ
今回は八歩螳螂拳について解説しました。八歩螳螂拳は螳螂拳のなかでも伝承者が少ないレアな支派です。八歩螳螂拳を軟螳螂と硬螳螂の中間とする分類もありますが、八歩螳螂拳は、七星螳螂や梅花螳螂拳と同じところに列されるものだと思います。
重厚でのびのびとした風格の螳螂拳です。細かい連打よりもダイナミックな動作が特徴です。興味がある方は、左顕富老師が台北市内で主催する「八歩功夫学苑」の門を叩いてみてください。