以前武備ログでは拳種の紹介しとして「螳螂拳」についての記事を掲載しました。
また先日は梅花螳螂拳について解説をしています。
螳螂拳は膠東地区で普及しているカマキリの勢(Shi)にインスピレーションを経て考案され、清末に体系が整理された山東省由来の総合武術です。
今回は、螳螂拳をもう一段掘り下げ、梅花螳螂拳と双璧を成す「七星螳螂拳」について解説します。
螳螂拳とは
まずは螳螂拳についておさらいします。蟷螂拳とは中国武術の門派で山東省の膠東地区で隆盛を誇った門派です。
門派の伝承によると、明末から清初に、膠東出身の王朗という人物が螳螂、つまりカマキリの鎌や勢からインスピレーションを得て考案した武術とされています。伝承によると、王朗は少林寺の僧侶に負けた後螳螂拳を創始し少林寺の僧侶に打ち勝ったとされています。
螳螂拳は螳螂手という手首を曲げた独特の手形、猿猴歩という霊活な歩法に特徴がある武術で、短い拳打や肘打等の中距離戦に傾斜した技撃体系を持ちます。
螳螂拳は当時山東地区で流行していた18種の武術を参考にして考案されたとされ、套路の数が多いことも特徴の一つです。
七星螳螂拳
七星螳螂拳は螳螂拳の主要な支派の一つです。金剛七星螳螂という別名を持っています。七星は七星歩を比較的多用します。
片足を前に出しつま先を上げる姿勢が北斗七星のような形をかたどるところから七星螳螂と名づけられたとされてます。
或いは、体の七つの部位、つまり頭、肩、肘、拳、臀、膝、脚を配合して用いるという点でも七という数字が当てられています。七星螳螂の風格は剛的で直線な印象を持ちます。
七星螳螂拳の技術的特徴
ここでは七星螳螂拳の技術的特徴を解説します。
七星螳螂拳は七星歩という歩形を多用します。七星歩とは前足の膝を伸ばし、足首を鍵のように曲げつま先を上にあげた歩形のことです。
この歩形が七星歩と名付けられた由来は、一つは雅名ですが、もう一つは、この姿勢が北斗七星に似ることからとされています。
七星螳螂拳は硬螳螂の代表としていわれるように、剛柔相済であるものの剛勁の強さに定評があります。螳螂拳の中では中正の姿勢を保持し、拳打や肘打を多用しキレのある風格が特徴です。
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七星螳螂拳の要訣
七星螳螂拳の要訣には以下のようなものがあります。
手法の要訣
- 勾
- 楼
- 采
- 挂
- 崩
- 劈
- 刁
- 砸
- 粘
- 拿
- 幇
- 靠
七星螳螂拳の伝承
螳螂拳の中で七星螳螂拳の系譜では、王永春からの派生が多くなっています。大きな流れとしては、王永春から范旭東、そしてそこから羅光玉や林景山に系譜がつながっていきます。
羅光玉は上海の精武体育会で螳螂拳を指導したため七星螳螂拳は上海のような南方に伝わっていきました。
また香港では、羅光玉の弟子の黄漢勛が書籍を出版し、七星螳螂拳の普及に貢献したため、精武体育会の海外の活動も相まって中国南部、または東南アジア、欧米にまで広く普及しています。
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七星螳螂拳の套路
七星螳螂拳の套路には以下のようなものがあります。
- 四路冲捶
- 十四路弾腿
- 十八叟
- 黑虎交叉
- 崩歩
- 躲剛
- 插捶
- 柔霊
- 白猿出洞
- 白猿偷桃
- 摘要
- 大架式
- 小架式
- 飛雁掌
- 攔截
- 八肘
- 四路奔打
- 酔羅漢
- 大翻車
- 小翻車
- 螳螂捕蝉
- 螳螂出洞
- 螳螂偷桃
- 単插花
- 双插花
他にも、梅花螳螂拳と共通の名称の当路や、対練、各種器械やその対打が存在します。
七星螳螂拳の功法
七星螳螂拳の功法として有名なものには十八羅漢功があります。十八羅漢功は字の如く18種類の動作を練る功法であり、内気、内勁、内功を練るのに非常に有効で重要です。
七星螳螂の代表的人物
王永春
王永春は李之剪から教えをうけた人物といわれています。王は当初華山派の武術や地蹚拳や羅漢拳を学んでいましたが、後に螳螂拳を学び、師兄弟の郝順昌とともに技を磨きました。
そしてそれが七星螳螂拳となったといわれています。
范旭東
范旭東は字を翔生といい、煙台の大海陽村の出身です。王永春について七星螳螂拳を習い鉄砂掌と羅漢功に通じていました。
光緒末年に、ロシア人がウラジオストクで試合を行った際、范旭東がロシア人を打ち負かした事件は彼の名声が轟かせました。范旭東には、郭嘉禄、楊維新、林景山、羅光玉、王伝義などの有名な弟子がいます。
羅光玉
羅光玉は煙台蓬莱出身です。1906年から范旭東に師事して螳螂拳を学び、1919年以降は上海精武会にて武術を指導しました。
成人してからは体躯は頑丈で覇気に溢れ豪気な性格でしたが、彼は幼少時に医者から、運動をしなければ長くは無い、といわれたほど病弱でした。范旭東から螳螂拳を習い練習に打ち込むことで病弱な体質を乗り越えました。
彼は精武四大拳師の一人と称されていました。1932年には彼は精武会から広東地区と香港の分会に派遣され、そこで螳螂拳の指導を行いました。これはのちに七星螳螂拳在が香港で広く普及するきっかけになりました。
林景山
林景山は萊陽姜疃村出身の人物です。林景山は貧しい環境で生まれ育ちましたが、武術を好む少年でした。
14歳の時に煙台の食糧品店に奉公に出され、時間を見つけては范旭東の練習を盗み見て練習していました。のちにそれが范旭東の知るところとなり、彼は范旭東に認められ弟子となりました。
林景山は1909年から天津の赭玉璞に招かれて彼の部下の武術教官をしました。1911年彼は煙台に戻り、范旭東の武館を継承し武術を指導しました。
1929年には煙台の養雋中学の武術教師となり、1935年には煙台特区武術館に招聘されました。その後、林景林は煙台市の市武術協会の会員として活躍、また煙台にて景山武術社を設立して指導に当たりました。
黄漢勛
香港で羅光玉の技を広く普及させた人物が黄漢勛です。彼が七星螳螂拳を指導したことで、自由主義側の中国人に広く螳螂拳が広まりました。また彼は多くの套路を紹介する書籍を出版したため七星螳螂拳の套路が広まることになりました。
七星螳螂拳のまとめ
今回は、以前紹介した「螳螂拳」を一段深掘りし、「七星螳螂拳」という螳螂拳の支派について解説しました。
七星螳螂拳は螳螂拳の代表的な支派という風にとらえる方が多いかもしれませんが、実際には七星螳螂は山東省や東北、台湾地区はどちらかというと少数派です。反対に中国の南方、上海、広東、香港、東南アジア、海外華僑の間に広く普及し螳螂拳の代名詞となっています。
この実際をさらに深掘りすると、螳螂拳は師兄弟や同輩間の交流により梅花螳螂拳と七星螳螂拳の伝承が交錯しあう状況があることも事実です。
実際に私の師爺は台湾地区では七星螳螂拳を看板に掲げていましたが、実際には梅花螳螂拳とも交流を行い、双方を伝承していた人物でした。
今回は王永春から連なる七星螳螂拳の大きな流れを中心に解説しましたが、海外まで広く普及している七星螳螂拳はこれら以外にも多くの伝承を含んでいます。また中国武術の中でも七星螳螂拳の技術体系は特に速戦性に定評があります。