皆さんは天正伊賀の乱という戦いがあったことを知っていますか。天正伊賀の乱とは、織田氏による伊賀国への侵攻及びそれに連なる戦いの総称です。
この戦いは全国的には有名ではありませんが、伊賀国の人々の生活、生活財、文化財に壊滅的な影響を及ぼした歴史的事件です。
今回は伊賀国に壊滅的打撃を与えた天正伊賀の乱について解説します。
目次
天正伊賀の乱とは
天正伊賀の乱とは天正6年(1578年)から天正7年(1579年)にかけて織田信長勢が伊賀国対して行った侵攻作戦の総称です。
天正伊賀の乱は織田信雄が伊賀に侵攻した第一次天正伊賀の乱、織田家の家臣団が大規模に伊賀を進行し伊賀を壊滅させた第二次天正伊賀の乱に区分されています。
伊賀の風土や歴史
天正の伊賀の乱の説明する前に、まずは室町末期から戦国期にかけての伊賀の風土や歴史を解説する必要があります。
伊賀の地理、気候と風土
伊賀国は現在の三重県の伊賀市、名張市の区域と概ね一致します。四方を山に囲まれた盆地です。四方とは、布引山地、室生山脈、大和高原、甲賀丘陵です。
北は六角氏が治める南近江、東は国司の北畠氏が治める伊勢国、南は筒井氏が納める大和国、西は足利将軍のおひざ元山城国と大和国です。毬剥いたら栗(伊賀向いたら九里)というように、木津川を下れば京都や奈良とも近い位置にあります。
伊賀国に流れる河川はほぼすべて淀川に流れます。文化圏としては方言、食文化ともに完全に関西地方に属します。東海道の難所にあたる鈴鹿峠が開削される前は、東国(伊勢国を含む)への主街道は加太峠を経由する道でした。
古代から鎌倉期の伊賀
伊賀国は680年に伊勢国から分立し成立しました。古代から中世にかけて、東大寺や興福寺をはじめとする有力寺社、または貴族の荘園が多く、奈良や京都から派遣された荘官や土着の下司が現地の有力者として振舞っていました。
名張郡の大屋戸を本拠とし黒田荘一帯を支配した大江姓の土豪たち(柏原の瀧野氏、竜口百地氏などが有名)や北伊賀の服部郷高畠の服部持法入道が「悪党」として日本の中世史に名前を残しています。
彼らは寺社や中央貴族の勢力が弱まると、荘園の下司や荘官は次第に独立した土豪となり、また地侍となり、誰の勢力にも屈しない自立領主となりました。
室町期の伊賀
もともと寺社の荘園が多く、幕府や朝廷の中央権力が及びにくい地域であったこともあり、室町後期になっても伊賀一国を統治する有力国人は現れませんでした。
守護は足利一門の仁木氏が代々勤めていましたが、守護の仁木氏に従属せず独立した行動をとる土豪が多くいたことが分かっています。伊賀では小領主を統一する勢力は現れませんでした。これは伊賀の土地柄、伊賀人の性格、他国勢力の介入など様々な要因が考えられます。
どこの誰にも従属しない一国一城の主が狭い伊賀国に割拠する中、小競り合いが頻発し、その小競り合いを制するための技術と諜報技術が高度化、やがて彼らはその小競り合いで培った諜報技術、陣地攻略の技術を他国に売りにだすというビジネスを考案します。
特に畿内と畿内周辺の近国では守護大名や足利一門の小競り合いが頻発しており、稼ぎ場所には事欠かない時代でした。
伊賀は足利一門の仁木氏が赴任し守護を務めていましたが、仁木氏も有力土豪といざこざを起こし、しまいには伊賀衆に居館を襲撃され逃走しました。その後は伊賀国は在所の地侍がそれぞれの領土を統治するという時代が続きました。
惣国一揆と伊賀
伊賀周辺の地域が戦乱で騒がしくなってきたころ、伊賀の土豪衆は自分たちの権益を確保するために団結する必要性に迫られました。そこで彼らは「伊賀惣国一揆」という国内同盟を結ぶことにしました。何百家とある自立領主が12名の有力者に権限を委ね、合議制による
国の運営を行いました。
伊賀惣国一揆には、掟があり、他国からの侵入には一丸となって立ち向かうこと、有事の際は17歳から50歳の男性は出陣すること、手柄を上げれば百姓でも士分に取り立てること、裏切者は征伐すること、甲賀とも寄合を行うこと会合等が取り決められていました。
天正伊賀の乱
天正伊賀の乱は一般的に「第一次天正伊賀の乱」と第二次天正伊賀の乱に分けられます。
第一次天正伊賀の乱
第一次天正伊賀の乱とは、伊勢国司であった北畠具房の養子となり北畠氏を乗っ取った織田信雄(織田信長の次男)が伊勢国の隣国である伊賀国を制圧するために兵を起こし伊賀を攻めたものの伊賀の土豪勢に敗北し伊勢に逃げ帰ったという一連の戦役です。
当時伊賀国は有力土豪衆が衆議による自治を行っていたものの、南伊賀(名張郡と伊賀郡)には北畠家と緩やかな主従関係を結ぶ土豪もいました。織田信雄は伊勢国司の北畠具房とその父北畠具教を殺害し北畠氏を乗っ取った後、次は隣国で北畠一族の影響が及んでいる伊賀国に勢力を拡大しようと考えました。
1578年には、伊賀国日奈知の土豪である下山甲斐守が織田信雄のもとを訪れ伊賀国への案内役を申し出ました。これを受けた織田信雄は、滝川雄利に枅川にある丸山城の修築を命じました。
さっそく伊賀衆は丸山城の修築の様子を探ったところ、石垣つくりの天守台の上に三層の天守があり、また二の丸への道は9回降り曲がっている等大規模な城郭であることがわかりました。
伊賀衆は上野台地の北端にある、平清盛による建立の平楽寺にて評定を行い、丸山城への対応について話し合い、完成までに襲撃を行うことを決議しました。
丸山城襲撃には丸山城近くの村々、つまり、神戸や上林、比土等、才良、郡、沖、市部、依那具、そして猪田や比自岐等から地侍が集まり、百田藤兵衛を頭に総攻撃を行いました。丸山城は焼き払われ陥落、滝川雄利たちは伊勢国へ落ち延びました。
その翌年の1579年9月16日、織田信雄は信長の承認を得ないまま独断で8000の兵を率いて布引山地方面の伊勢路口、鬼瘤口、国見山口から伊賀国に侵攻しました。伊賀衆は地の利を生かした戦法、夜討ち、奇襲など得意な戦法を生かし伊勢の兵をさんざんに打ち負かしました。織田信雄の一行は多くの兵を失い、鬼瘤峠の戦いでは柘植保重を討たれ、伊勢国に敗走しました。
織田信雄はこの一連の侵攻を織田信長の承認なしに行い、敗戦したことから信長は親子の縁を切ると書いた書状をしたためたほど激怒したといわれています。
このころ、織田家を織田家を取り巻く状況としては大坂の石山本願寺との抗争、そして織田包囲網が構築されていたこともあり、他国まで拡張することのない伊賀国の平定は後回しにされました。
第二次天正伊賀の乱
1580年になると大坂の石山本願寺が陥落したことで信長は包囲網は解かれ、戦況が一段落しました。ここで信長は近国で後回しになっていた伊賀国の平定に乗り出しました。これに呼応し、上柘植の福地宗隆と河合の地頭である耳須弥次郎が安土城を訪れ、信長に対し伊賀の道案内をすると申し出ました。
伊賀衆はこれに対し上野の平楽寺で評定を開き、上野の平楽寺や比自山等の拠点に抗戦することを決議します。
1581年には織田勢は合計43000人にも上る軍勢を終結し伊賀に侵攻しました。比較的信頼できる資料として有名は「信長公記」と「多聞院日記」には9月3日の侵攻とあります。
織田家の軍勢は織田信雄が伊勢路口から、そして北部の柘植口から丹羽長秀や滝川一益が、
玉滝口からは蒲生氏郷らが、信楽口口からは、堀秀正、多羅尾弘光らが侵攻、伊賀の南西部からは、笠間口から筒井順慶が、初瀬口からは浅野長政が侵攻しました。
伊賀衆は長田郷の土豪で評定十二人衆の筆頭格である百田藤兵衛をはじめとし町井清兵衛、森田浄雲などをはじめとした土豪とその郎党と非戦闘員を合わせて1万ほどの軍勢。
伊賀は伊賀東部、北東部、北部、南西部という全周囲から攻撃され、在所の土豪は侵攻に備えて構築した砦や出城、要塞化した邸宅に籠城して抵抗しましたが各地で各個撃破されます。
雨乞い山砦、春日山砦などでは激戦が繰り広げられたといわれています。
北部では1500名という伊賀衆が籠城を行った平楽寺でも滝川一益により陥落しました。この時は多数の僧兵が打ち首にあったと伝わっています。ちなみに平楽寺の遺跡は上野台地の北端、現在の伊賀上野城の地下に埋まっています。
比自山城の戦い
大きな籠城戦があったところとしては上野の平楽寺での籠城戦のほかには長田の比自山での籠城戦でした。比自山には長田郷や朝屋を中心としてその近隣の土豪とその一族郎党とその家族と下人が集結していました。
織田勢は蒲生氏郷や滝川一益、丹波長秀等の重臣らが長田川(木津川)の東岸に陣を構えにらみ合い、比自山の風呂が谷で激しい戦闘が行われたといわれています。
ここでは「比自山の七本槍」という近隣の七人の土豪が活躍したといわれています。しかし多勢に無勢、そして食料不足により伊賀衆は南伊賀に撤退することを決意します。
織田勢は比自山の総攻撃を決議し、比自山城に突撃しましたが、その時には伊賀勢は軍勢を引き払いもぬけの殻になっていました。
柏原城での決戦
柏原城は天正伊賀の乱の最後の拠点のなった城郭です。瀧野氏の城郭であったため柏原地区では瀧野城と呼ばれています。ここには大将の滝野十郎吉政を筆頭に伊賀衆が立てこもり、必死の抵抗を見せました。
織田勢も何度か総攻撃をかけましたが、三重の土塁から放たれる矢と銃弾により被害が続出し、伊賀衆の得意とする夜襲にもさんざんに悩まされたようです。戦況が膠着状況に陥る中、奈良の猿楽師の大倉五郎次の仲介により講和が成立、伊賀衆は人命を保証するという条件の上降伏しました。
第二次天正伊賀の乱では伊賀国中の村落のみならず神社仏閣がことごとく焼き払われ、伊賀一国が灰燼に帰したといわれるほどの損害を受けました。当時の伊賀の人口は10万人程度、その3割ほどが天正伊賀の乱で命を落としたといわれています。
天正伊賀の乱その後
天正伊賀の乱では伊賀全土が壊滅したとされていますが、中には甲賀群や大和国の遠縁を頼って深山に隠れたり、他国へ脱出したり、財産を山に埋めたりして復活の基盤を残せた者も多くいました。
1582年に本能寺の変が起こり織田信長が明智光秀に打たれると、伊賀衆は各地で反乱を起こし、柏原城を奪還したりという行動を起こしています。偸盗、城取り、陣地攻略や情報収集の腕を持っていた者の中には伊賀を離れ、各地の諸侯や武将のもとに仕官する者もいました。
特に早くから伊賀を出て他国の武将に仕官していた服部半三家を頼って三河に転居した者も多くいたようです。日本各地にある伊賀町という地名がその名残です。一部はそのまま服部正成の配下となり、伊賀組同心として江戸城の警備に当たりました。
伊賀ではその後筒井順慶の息子である筒井定次が伊賀藩を修めますが改易となり、その後伊賀の藩主は藤堂家となりました。
藤堂家の津藩では室町期から伊賀の土豪であった者を無足人とし、戦時の徴用に応じることを条件に名字帯刀や賦役の免除などの特権を与え村落を統治させました。室町期からの土豪、郷士は江戸時代になっても庄屋、あるいは無足人となり、村落統治の中核となりました。
伊賀国の中世城館と天正伊賀乱の遺構
伊賀国には何百という中世城館があります。中世城館の密度は日本一です。これが意味するところはいくつかあります。考察できる理由は以下の通りです。
突出した勢力者が現れず、小領主が乱立しそれぞれが居館を要塞化した。権力者がいないため統一的な治安維持機構が存在せず小領主は各自自営をする必要に迫られた。山がちで谷田が多い狭い土地に小領主がひしめき合い、互いに衝突と小競り合いがあった
隷属民や百姓、小作からの襲撃に備えた
が考えられます。
伊賀の土豪の邸宅の裏には詰めの砦が作られていることが多く、また集落の城という形態もあれば、平時の詰め城としては規模が大きすぎるもの、また明らかに急ごしらえで作られたものなどが混在します。伊賀の中世城館には、天正伊賀の乱において織田勢を迎え撃つために急きょ作られた戦時の城郭が相当数含まれていると考えます。
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中世以前の記録が乏しい伊賀
伊賀には中世以前の記録はあまり残っていません。これは天正伊賀の乱により神社仏閣や領主の屋敷がことごとく焼き払われたためだといわれています。
よって黒田の悪党や北伊賀の悪党の活動等中世の伊賀国の様子を知るには、東大寺や奈良の仏閣、京都の朝廷の資料を当たる必要があります。現存する室町期以前の文化財はこの天正伊賀の乱を乗り越えた貴重なものです。
天正伊賀の乱の遺構が見れる場所
天正伊賀の乱の遺構が見れる場所はたくさんありますが、ここではその中で比較的大規模なものをいくつか紹介します。
丸山城跡
丸山城は伊賀盆地の中央に位置する丸山の独立丘陵に建てられた城郭です。築城者は北畠具教、最高所には天守台と三層の天守が設けられ、九重の曲がり角があり、大小の郭が設けられており、西に木津川、北に比自岐川、東に領主谷川があり、天然の要塞でした。
本丸のほか、高低差を利用して南北と西に平坦地が築かれています。伊賀の織豊系城郭としては最大規模で見学もしやすい城です。天守台には以前は石垣があったが伊賀鉄道架設に伴い持ち出されたといわれています。
比自山城跡
比自山城は伊賀市長田の西の丘陵地に建てられた山城です。頂上に観音寺があったとされています。北は大和街道が通り、西は山深く、南は法花に連なる山脈、東は百田藤兵衛の居館や西連寺があります。
伊賀勢の城郭としては最大規模であり、東すそ野にある百田藤兵衛城、福喜多城や朝野の大寺である西連寺と連携できる地勢にあります。また大きな地勢でみると東を南から北に流れる木津川が外堀の役目を担っています。
天正伊賀の乱では、北伊賀や長田近郷の郷士とその郎党が籠城したと伝えられています。
柏原城跡
柏原城は、三重県名張市赤目町柏原にあった城郭です。滝野氏の城であるため柏原地区では滝野城と呼ばれています。滝川の東、龍神山の麓のにあり、大型の単郭四方土塁の城です。
二重の空堀、丘陵側の三重の空堀、虎口の石垣が今でも残っており、主郭の東隅には「御滝女郎化粧井戸」という井戸跡があります。
城主の瀧野十郎吉政は評定十二人衆の一人であり、黒田荘の下司の一族である大江氏の後裔を自称しています。天正9年の第二次天正伊賀乱では比自山から落ち延びた北伊賀の土豪衆や南伊賀の土豪を集め、1600人ほどが立てこもり、砲や弓矢で激しい抵抗を行ったと伝えられています。
なお平楽寺はそのあと筒井氏時代に西軍の城として伊賀上野城が築城され、津藩になってから東軍の城として縄張りを上書きされ伊賀上野城が築城されています。よって一部の石塔類を除き見るべき遺構は確認できません。
天正伊賀の乱関連書籍
ここでは天正伊賀の乱に関する書籍を紹介します。天正伊賀の乱に関する軍記物語、小説、解説書、映像作品は以下の通りです。
伊乱記
伊乱記は江戸時代中期に上野城下に住んでいた菊岡如幻が執筆した軍記物語です。当時伊賀に語り継がれていた天正伊賀の乱をまとめて著したものです。伊乱記は平家物語等と同じ軍記物というカテゴリーの著作物であり、歴史書ではありません。
江戸期からしか文献に登場しない郷士の名字が記載されていたり、先祖を顕彰しようとする思惑が見え隠れし、歴史書としての信ぴょう性に関しては慎重に扱うべき著作物です。
梟の城
司馬遼太郎の直木賞受賞作。安土桃山時代を生きた二人の伊賀者、葛籠重蔵と風間五平。
二人の伊賀者の生きざまを通して忍びを映した作品。
他にも以下のような作品があります。
忍びの者
村山知義、理論社 小説国民文庫 1962年。
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忍びの国
和田竜 新潮社 〈新潮文庫〉2011年
山河果てるとも 天正伊賀悲雲録
伊東潤 角川グループパブリッシング 2008年
天正伊賀の乱
文献を参照しながら歴史上の出来事を丁寧に解説した中公新書シリーズの一冊
織田信長の伊賀侵攻と伊賀衆の城館
天正伊賀の乱関連映像作品
梟の城
忍びの国
天正伊賀の乱のまとめ
今回は天正伊賀の乱について解説しました。応仁の乱で京都が焼け野原になり、他国が戦乱で荒れ果てる中、伊賀国は天正期まで大規模な戦火を受けず、小領主が割拠する時代が長く続いていました。
天正伊賀の乱が発生したころは、織田家はすでに畿内近国を手中に収め、支配が行き届かない地域はほぼ伊賀国のみとなっていました。伊賀平定により織田家は日本の中心地を手中に収めることに成功しました。
伊賀では織田勢の侵攻により神社仏閣が焼き払われ、全土が灰燼に帰するほどの打撃を受けました。
多くの伊賀者が殺され、伊賀を去り、他国の諸侯に召し抱えられたりという人生を送るものがいた一方、元の鞘に収まり、江戸期、明治大正昭和を通して子孫が在住している土豪の末裔もいます。
天正伊賀の乱は戦国時代の主たる歴史の中ではあまり語られることのない戦役ですが、伊賀国人にとっては有史以来最大の苦難となった出来事でした。
もし天正伊賀の乱に興味がある方は、伊賀の史跡をめぐってみてください。そして伊賀の風土がどのようなものであるか、どのような戦闘が行われたのかを肌で感じてみることをお勧めします。