本日は忍術について解説を行います。
忍術とは
忍術とは、日本の室町時代から戦国期にかけて、諜報活動や窃盗に関連する技術及びそれを防ぐ技術の総称です。忍術は別名、「偸盗の術」「惻隠術」ともいわれ、情報収集を目的とする諜報技術の体系です。
一般に忍術を使用する者は、黒色の装束、または鎖帷子を纏い、戦闘を行うというイメージが強いですがこれは虚像であり、本来は、忍術は現代でいうスパイ、または諜報員の技術でした。
私個人は、忍術を人を「人の皮をかぶった鬼たらしめる技と認識しています。まぜならそれは良心にさいなまれない冷酷さがそれにともめられるからです。
忍術には、諜報活動を行う際の武術、城攻め、戦忍びの技術を含める場合があります。
忍術の技術体系
忍術の一般的な技術体系は以下の通りです。
侵入術
屋敷、城に侵入する技術です。土塀を飛び越える、閂を外す、等がこれに含まれます。
二人組で屋敷に近づき、一人が門の前で使用人の注意を引いている間、もう一人が裏口から家屋に侵入するという技術もこれに含まれます。
遁走術
発見された場合に敵に捕縛されず逃げ延びる技術。足元にうずくまりじっとする、木に張り付いて気配を殺す、等がこの技術です。
開錠術
錠前を外す技術。ピッキングツールを使う技術とみていいでしょう。
放火術
敵方を混乱させるため有効的に火を放つ技術。城内にあらかじめ潜伏している潜入者が打ち合わせ通り、放火をするという方法がとられます。
模倣・方言
諸国探索の際、こちらの出自が分からぬ様、日本全国の方言を使いこなす術。「~ござる」という方言は伊賀では、滋賀県県境地帯でしか使いません。大和国北部、山城国、南近江であれば、方言取得は比較的簡単ですが、東国、西国では方言が異なるため、習得には時間がかかったと推測します。
心理術
人間の心を読み解き、人の弱みにつけこんで人を欺く、こちらに有利なように操るための術。
変装術
諜報活動をしていると見破られないように変装を行う技術これはとうに諸国に普遍的に存在する
- 虚無僧
- 出家
- 山伏
- 商人
- 放下師
- 猿楽
- 常の形
の形を利用する事です。忍術伝書では「七方出」という名前で記載が見られます。社会階層により仕種、言葉、行動様式が異なるため、変装するだけではなく、これらの常識も習得することが求められます。
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薬学
毒薬や火薬を調合する技術です。諸国からの要求に答えるために、伊賀の郷士とその下人は
当時最先端の技術を切磋琢磨し比較優位な技術を保持していたと考えます。
また戦忍びでは、
- 砲術
- 火術
- 城入りの術
も重視されていました。伊賀の忍術使いは、特に砲術、夜襲、放火、城入りに長け、畿内の戦場で引手あまたの活躍をしたと伝えられています。
楯岡の伊賀崎道順は六角義賢に仕えていたころ、義賢の配下であった百々某が謀反を起こした際、百々氏の居城、沢山城に忍び入りし、城に火にかけ城内を大混乱に陥れ、城を落とし手柄を立てたといわれています。伊賀崎道順(楯岡の道順)は難攻不落の城も
「佐和山や、百々ときこゆる雷も、伊賀崎入れば落ちにけるかな」
と詠われたほどの名人でした。
忍術の流派
忍術の主な流派は以下の通りです。
- 伊賀流
- 甲賀流
- 他 風魔流等
ただし、国境が低い丘陵と間道で通じる伊賀国と甲賀郡について技術的な差異はなかっであろうことが現在の定説となっています。現実に、伊賀国北部と甲賀郡南部について、文化、方言に明確な境界線はありません。
忍術の虚像
忍びは敵陣への忍び入り、防諜活動、時には戦忍びを行うことから忍術は戦闘技術であるというイメージが先行していますがこれは全くの虚像です。忍術教室と銘打った教室で体術を中心に指導しているところがあるとすれば、それは本来の忍術の実像とは全くかけ離れた技術となります。
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忍術の実像
忍術とは、「敵を欺く」技術であり、本来体術や刀術を中核とする技術体系ではありません。衝突が発生する何年も前から、敵陣に雇われ、何気ない顔で怪しまれず、重要な情報を引き出し、それを行っていることすら誰も気づいていない、これこそが忍術の名人のやることです。
戦忍びの例については以下の話があります。
守護大名の六角氏征伐のため、足利義尚が南近江に親征を行った「鈎の陣」にて、甲賀衆が幕府の陣地に奇襲をかけ、大勝利をおさめました。それ以後、甲賀衆、伊賀衆の戦忍びの評価が日本全国に知られました。
各地の武将は伊賀、甲賀地区の郷士に対し戦忍びを調達したい旨の使者を使わし、また伊賀甲賀の郷士は、自家で訓練した下人や小作人を農閑期に戦忍びとして送り出し、報酬を得るというビジネスが成立していたと考えられます。
まとめ
藤林保武が江戸時代に執筆した「萬川集海」には忍術は本来「偸盗の術なり」であり、「正心」を解かなければならない、と書かれています。萬川集海は、天下泰平となり、戦忍びが無くなり、伝承されていた伊賀の忍びの技が失われつつある当時、戦国期を生き抜いて老いた下忍たちから、若いころに使っていた忍びの技の数々をかき集めて執筆されたことが想像できます。
忍びの技はもともと、金銭的報酬を目的に、訓練した自家の下人を他国へ売り出すという形態で成り立っていた純粋な技術体系であり、室町期、戦国期には、「正心」については考えられていなかったと思われます。
まず、「人を欺くこと」である忍術と、「正心」はそもそも相容れません。しかしこれを記述しなければ、藤林保武の苦心の著作「萬川集海」は天下泰平の江戸時代において、「泥棒の指南書」になり下がっていたでしょう。
伊賀の先人の技術を誇りとし、伊賀郷士の権威とするため、自身の著作に「正心」という概念を取り付けた藤林保武公に敬意を表します。
萬川集海の写しは、現在でも伊賀の無足人家の土蔵から古文書として発見されることがあります。