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陸軍中野学校~近代唯一の日本の諜報員養成機関~

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室町末期の伊賀地方では、列国の大名諸侯や土豪衆から引手あまたの誘いがあり、情報収集に城取り、夜討ちに日の本六十余州で比類ない活躍をした伊賀の土豪とその郎党や下人たち、彼らの技術伝承方法は明らかになっていません。

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おそらく土豪の屋敷や神社の境内、伽藍の広場で先輩から後輩に術が継承され、それが現場で磨かれていくというスタイルが行われていたと思います。忍術や情報収集技術は江戸時代に入り、活躍の機会が大きく失われたためその多くが失伝してしまいました。

長らく日本には、諜報員を専門に要請する機関はありませんでしたが、1937年に、大日本帝国内で諜報謀略の重要性が増したことから参謀本部に提出された「諜報謀略の科学化」という意見書により、日本の軍部でも諜報員を養成する機関の設立が決定されます。本日は諜報員の教育、訓練を目的とした軍学校「陸軍中野学校」について解説を行います。

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陸軍中野学校とは

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陸軍中野学校とは、諜報や防諜、情報収集、煽動、宣伝など秘密工作に係る教育矢訓練を施すことを目的として設立された日本帝国陸軍の軍学校です。かつて所在地が東京都中野区中野にあったため陸軍中野学校と呼ばれていました。

陸軍中野学校の沿革

第二次世界大戦第二次世界大戦

陸軍中野学校の創設は1937年にさかのぼります。1937年と言えば、既に大陸前線は泥沼の膠着に陥り、日米の緊張が高まりを見せている頃です。情報技術と軍事技術の発達により戦争形態が日々刻々と変化していくなか、謀略の重要性が日増しに高まっていました。すでに列強諸外国は諜報機関を設立し、様々な方法で情報攪乱や情報収集を行っており、その技術の体系化、要員の育成も進んでいました。

日本が世界の潮流から外れてしまうことを危惧した岩畔豪雄中佐が、参謀本部に対し「諜報謀略の化学化」という意見書を上奏したのが陸軍中野学校の始まりです。

同年、陸軍省が諜報学校の創設を決定し、1938年に「防諜研究所」が設立されます。同年7月より一期生(19名)の教育が開始されました。1939年には「後方勤務要員養成所」に改編され、第一期学生が卒業します。1940年には名称を「陸軍中野学校」と変更し、1941年には、参謀本部直轄の学校に変貌します。

1944年には、静岡県二俣町に遊撃戦を主体とする人員養成機関である「陸軍中野学校二俣分校」が設立されました。また1945年には、群馬県富岡町に疎開し、講義が続けられていました。

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中野学校への進学者たち

高射砲高射砲

中野学校の学生は、陸軍士官学校、陸軍予備士官学校などからも抜擢されましたが、多くは大卒の学歴を持ち、民間での実務経験を持った攻守幹部候補生でした。また下士官出身者も多く、陸軍士官学校の卒業者はむしろ少数でした。

大学や高等専門学校の卒業生のうちでは、東京帝国大学卒業生が最も多く、拓殖大学、東京外事専門学校、早稲田大学等、慶應義塾大学、明治大学など名門校出身者も多いことが特徴です。これは、諜報員となるには、幅広い知識、学識、論理思考、軍隊生活では成しえない一般人としての社会経験が必要とされたためです。

陸軍士官学校卒の士官では、軍事知識と訓練は経ているものの、行動にどこかしら軍人じみた雰囲気が出てしまうため、敬遠されていました。高い知能を備えた優秀な人物であれば、商社の駐在員や研究者、現地の通信員、新聞記者として諜報活動を行う際にも不自然さがなく適格とされました。

陸軍中野学校の教育と校風

第二次世界大戦第二次世界大戦

ここでは陸軍軍中野学校の学生の服装や教育内容について解説します。

服装

中野学校の学生は、軍籍で有りながら軍服を着用せず、通常の服装でいることが推奨されていました。髪型も坊主頭ではなく、長髪であることが推奨されていました。

授業内容

第二次世界大戦第二次世界大戦

陸軍中野学校の授業内容は以下の通りです。

  • 兵器、築城など航空などの軍事学
  • 外国語(英語・ロシア語・中国語)
  • 武道(剣術・柔術)
  • 化学や細菌学、薬学、医学、気象学、統計学
  • 通信技術、自動車運転などの実習
  • 忍術などの外部講師を招いての講習
  • その他

等多岐にわたっています。謀略、情報収集、諜報、防諜の技術が講義の中心ですが、政治、宗教などの学科もあり、中には開錠術、暗号に関する実技もあったと思われます。

一日の時間割としては、午前は座学と実習、午後は自習となっていたようです。

とくに、外国語の習得は十分重視されており、当時では、中国語、ロシア語と世界共通語出る英語が必須の項目でした。

陸軍中野学校の講師陣は、中野学校卒業生や、参謀本部将校、陸軍省の中堅将校などですが、ほかにもその道の専門家を招聘して講義を行っていたようです。

卒業生の活躍

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第二次世界大戦では、陸軍中野学校の卒業生は、各種の諜報戦、防諜、情報収集、潜入、破壊工作、扇動作戦で活躍します。現地の義勇軍の育成リーダーとしても能力を発揮していたようです。

南方戦線では、マレー作戦において、藤原岩市少佐が率いるF機関(藤原機関)が、インド人が半数を占めるインド人部隊に対する投降作戦を行い、投降したインド人部隊により破壊工作を行うという成功を収めました。

この活動は後に、自由インド仮政府を設立するチャンドラ・ボースの活動となって花開くことになります。またその他、ビルマ、インドネシアの宣伝活動には中野学校出身者が関わっていました。

第二次世界大戦後

第二次世界大戦第二次世界大戦

1945年8月15日に陸軍中野学校は公式には閉校しますが、一部の卒業生はその後も活動を継続していたとみられます。インドネシア独立戦争、インドシナ戦争の指導を行ったもの、またフィリピンのルバング島に潜伏を続けた小野田寛郎も二俣分校の出身です。

まとめ

第二次世界大戦の地下壕第二次世界大戦の地下壕

本日は日本の諜報員養成機関である陸軍中野学校について解説しました。陸軍中野学校では藤田西湖という人物が甲賀流忍術を指導していたという話や、伊賀国阿拝郡東湯舟村の郷士藤林左武次保武が著した忍術書の万川集海が参考書とされていたという話もあり、忍術との関連性が示唆されています。

現代では、当時、陸軍中野学校で行われいた講義内容や諜報技術は80年陳腐化していますが、当時の最新最高の諜報技術を学べる場所であったことは事実です。その時点で得られる最高最新の知識と技術を使用するというところが、伊賀忍術の心意気であるとの共通点であると感じます。

伊賀忍術の心を得るために、剥げた黒染の道着を着て、畳のうえで地下足袋を履いてくれんぼをうって苦しい修行している皆様、先人たちの努力を見習い、最高で最先端の諜報技術や情報収集技術を得る努力をしてみてはいかがでしょうか。

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