忍術と言われる技術は、戦国の乱世が終息し、徳川幕府による天下泰平の世が訪れて間もなく、失伝していきます。藤林保武が万川集海を執筆した延宝4年(1676年)頃には、戦国期を壮年で過ごし、他国で技を売っていた腕自慢も年老い、亡くなっていきます。
当時は、伝染病への特効薬、外科手術などの医学が現代ほど発達していないため、平均寿命は現代人と比べて短く、老年期まで生き残る人間の数がそもそも少ない時代でした。藤林保武が存命の頃は、実際に合戦に出かけ戦忍びを行った人間に直接話を聞ける最後の時代であったと想像できます。
本日は、なぜ忍術が現代まで伝わっていないのか、その本当の理由について解説します。
忍術が失伝した理由 その1 儲からなくなったから
忍術が失伝した最大の理由は、金が稼げなくなかったからです。忍術はそもそも戦国の乱世でこそ存在を求められた技術です。
尚且つ、伊賀の旦那衆にとっては、忍術は名誉や官位を上げるためのものではなく、金銭的な報酬を他国の諸侯から稼ぐ一手段に過ぎませんでした。そもそも忍術は世のため人のため、主君のために存在するのではなく、技術を売って金を儲ける経済行為です。
よって戦国期が終わり、各地の戦乱(特に畿内の戦)が減少するに伴い、城入り、忍び入り、密偵の需要が急速に減少し、報酬が稼げなくなってしまったことが最大の原因であり、これが失伝の本質です。
忍術が失伝した理由 その2 天正伊賀乱での秩序崩壊
忍術が失伝した第2の理由は、天正伊賀乱にて伊賀国の秩序が一度崩壊したことが挙げられます。天正伊賀乱では、一つにまとまることを古代から最も不得手とする伊賀衆が珍しくまずまず結集し他国勢力に対し、抵抗する姿勢をみせた歴史的事件でありました。
但し、統一した強力な指揮系統を持たない土地柄故、郷士が城塞化された居館でそれぞれに防衛し、統率のとれた信長軍に各個撃破された在所もあったであろうと思われます。
伊賀国は天正伊賀乱により一国一面が焦土と化し、伽藍、貴重な文物が悉く灰燼に帰しています。降伏した者、他国に逃れたもの、山中奥地に隠れたものが、本拠に戻り復興した家系もあったと思われますが、戦乱の中で断絶した家系も数知れずあったと思われます。古い秩序が崩壊し、里々に蓄積された技術の断絶が起こったと考えるのが妥当です。
忍術が失伝した理由 その3 純然たる技術であること
忍術が現代にまで伝わっていない理由の3つ目、それは忍術自体に芸術性がないことにあります。忍びの業は、人を欺き、人の弱みに付け込んで、人を惑わし、人を陥れるための純粋な技術体系であり、そこに藝術が付け入る隙を持っていません。これは他の武芸、例えば柳生新陰流剣術のように剣技を芸術に昇華させたことと対比できる事象です。
まとめ
そもそも忍びの技は、偸盗の術であり、人の心の隙間に入り込み、人を欺く術であることから、これに芸術性を持たせることはなかなか厄介なことであり、いくら忍術秘伝の書に「正心」を書き込んでも平和な時代はなじまなかったと考えることが妥当と思われます。
時代に不要な技術は体系的に保存されることは無く、淘汰されることが当然です。よって伊賀の忍術はすでに失伝して久しく、わずかに万川集海など少数の文献により技術の一端を垣間見れるだけとなっているのが実情です。