現在、三重大学や民間の個人の忍者研究家、忍術研究家により忍術について、研究、指導、紹介が行われています。忍術が現代に有用な技術であるかのような説明を行い指導を行っているところもあるようです。
結論から申し上げると、現代の忍術研究家が指導している忍術と言われるもののほとんどは、技術的に500年近く陳腐化しており、現代社会に於いて全く使いものになりません。
本日は、忍術の現代戦への応用の可能性と有用性について解説します。
伊賀忍びの衆の戦国期における忍術の立場
応仁の乱から戦国期にかけて、伊賀の豪族衆は、当時最先端の探索技術、または砲術、火術等戦忍びの技術を持って、天下に名を轟かせていました。日本全国、北は陸奥、西は鎮西九州に至るまで、伊賀の忍術が脚光を浴び、諸侯からの引手あまたの誘いがあった理由は、最先端の技術を持っていたということが原因です。これについて以下に例を挙げます。
- 火薬の取り扱い
- 砲術
- 山城への侵入術
- 各地方の方言
- 変装
- 密偵の技術
- 流言卑語をまき散らし世論を操作し、攪乱させる術
当時の伊賀の忍術使いが現代にいたならば
戦国期の伊賀の忍術使いが現代にいたならば、その忍術使いは、現代において最先端の科学技術を研究し、駆使することが当然でしょう。
有用な忍術とは、常に知りうる世界の最先端の技術を有さなければならないと考えます。当時の伊賀の忍術はまさにそれを体現していました。悲しいことに、現代の忍術使いを名乗る者は、最先端の技術を研究しないばかりか、500年間も陳腐化した技術を弄んでいます。
実際に忍術は技術的に500年陳腐化しています。
煙の末の如く音もなく、匂いも姿もないはずの者が、いまどき、木綿製の服装と地下足袋を纏い、鯉の生血を練りこんだ麦団子を口に含んだり、本来諜報技術と遁走術である忍術を指導すると言いながら、指導する内容は、体術ばかりであったり、非常に滑稽です。
1854年~1945年頃に必要であった忍術
1854年から1945年、黒船来航、幕末、明治維新、日清日露戦争、第1次世界大戦およびその後の第2次世界大戦において、世界の科学技術は日進月歩の勢いで進化し、その科学技術は鎖国によって停滞していた日本の伝統的秩序、科学技術を瞬く間に無用の長物としました。日本人は合理的精神で西洋からの科学技術を積極的に取り入れ、多くの東洋の地域が欧米列強の植民地に繰り入れられる中、列強の一員として世界の支配者の列に加わりました。
当時の科学技術の進歩と相まって、諜報技術、防諜技術も目覚ましい発展を見せていました。当時、必要であった忍術としての諜報技術は、例を挙げると以下の通りとなります。
- 変装術(手ぬぐいでの顔の拭き方まで)
- 外国後(ロシア語、英語、北京語、朝鮮語その他大陸各地の諸方言まで)
- 暗号作成、暗号解読
- 爆薬、破壊工作
- 小火器の取り扱い及び護身術
1894年以前は当時仮想敵国は当時「眠れる獅子」と言われた清国、そして1904年までは、極東に不凍港を求め東進しまたは南下してくる大国ロシアとの戦争、そして1914年に勃発する第1次世界大戦では、青島に膠州湾租借地を擁するドイツ帝国との戦争、そして満州事変、日華事変、ソ連の対日参戦と、大陸では多くの戦争、事変が繰り返されていました。
特に、日本陸軍の最大の仮想敵国であったソ連、そして当時泥沼の戦況を呈していた蒋介石率いる国民政府、また各地でゲリラ戦を展開していた八路軍(後の人民解放軍)との間で諜報活動、及び相手方の諜報活動に対する防諜活動が行われていました。当時、北満ではソ連に対する情報収集並びにソ連のスパイに対する防諜活動、また当時アジア随一の国際都市であった「東洋の魔都」上海の租界では熾烈な諜報、防諜活動が行われていました。
中国大陸での諜報活動に関与していた組織
中国大陸での諜報活動に関与していた組織は、以下の通りです。
- 満鉄調査部
- 陸軍中野学校卒業の情報将校
- 大本営参謀本部情報課
- 関東軍情報部
さらに国際連盟脱退による英米との緊張の激化により、英文での暗号、情報収集も重要となり、当時は非常な緊張感に包まれた国際情勢の時代でした。
80年前の技術の有用性
1945年以前に培われた諜報及び防諜技術のほとんどが、80年しか経過していないにもかかわらず、相当に陳腐化し2019年の現代において、全く使い物にならない状況です。
まとめ
忍術を志すということは、諜報技術と防諜技術の技術体系という忍術の本質を正確に理解することが必要です。惻隠術とスパイの諜報技術は概念が異なる、と思う方もおられるでしょう。私はそうは思いません。なぜなら当時の伊賀衆は、諜報技術として後の人間が忍術と名付けた技を使っていたからです。
次の寄稿では、現代で必要な忍術、または不要である忍術の具体的例及び、道具について解説を行う予定です。