本日も忍術の心得が詰まっている「伊勢三郎義盛百首」という歌集の中にある歌について、いくつか解説をしたいと思います。
今回は伊勢三郎義盛忍び歌百首の中から「偽り」に関する2首について説明します。
目次
いつはりを 恥とおもはじ しのびには 敵出しぬくぞ ならひなりける
現代語訳:偽りをすることを恥と思わない忍びには、敵を出し抜くことが、本来の務めである。
解説:忍びは、人を出し抜くことが任務であり、忍術はそれに特化した技術体系です。正義、忠誠、良心などにさいなまれない心で、人を出し抜くことこそが務めであることを述べた歌です。
武将に忠誠を誓って臣として勤めたり、そのような概念は忍びには存在しません。ただ、顧客満足による報酬の為、取りまとめをしている旦那衆から要請をこなす、ということが必要です。
忠義と体面、大義名分という余計なものにさいなまれる武士にはできないような、任務を行い、変幻自在、臨機応変に人の弱み、懐に付け込んで、闇を生きる。それが忍びの技術そのものです。
忍びの心得は、武士道や軍人勅諭とは親和性は低く、むしろ、忍びの心得は、「敵を欺くこと」と「奇を持って正を制する」ことを旨とする孫子の軍略との相通じるものがあります。
孫子では兵は詐を立つ、とある通り、敵を欺く、出し抜くこと重要であると説きます。素直と実直はバカの代名詞です。いかに自分を偽り、味方、家族、時には自分自身でさえ偽りながら出し抜くかが大事です。
人間にはいたわりや慈しみの心の隙間に誰しも必ず闇を持っています。そして人間は欲にも目がくらむものであり、ときに錯覚を起こし、自分の都合の良いように物事を解釈し、認知のゆがみを持つ物です。
忍びはこれらの人間の現実的な心の在り方を理想論ではなく真っ向から肯定し、これを活用していく術を皆さんに教えています。
ビジネスも戦も、人間関係も、すべては人を出し抜くことが成功の条件です。なぜなら人間社会は池の中、サバンナと同じく限られた資源の中をお互いに奪い合って生きる生存競争の中で活きているからです。
これがいい悪いではなくこれが社会のみならず宇宙の現実です。このような世界で自分が有利な立場を保持し、効率的に優位に立つにはどうしたらいいか、それは忍術書にある通り「人を出し抜くすべを磨く」ことです。
私の経験から申し上げると、真っ当に生きようとするものは損をしヤラれつづけ、だまされ続けみじめな人生を送ります。逆に人を出し抜くことを考え続ける人間は、成功し、幸福で充足度の高い人生を送ることができます。
これは、伊賀の風土が作り上げた奥ゆかしき心です。
いつはりも なにかくるしき 武士(もののふ)は 忠ある道を せんとおもひて
現代語訳:偽りも何か苦しいとおもうものが武士である、忍びであれば、偽りは主君への忠信を誓う生き方である。
解説:武士であれば、忠義、忠節、武勇などの精神を尊重し、それに固執し、執着し、大勢を失うことがあるかもしれません。
忍びの道は、報酬を求めるために技術を売り込んでいるにすぎません。よって忍びはこのような不要な概念にさいなまれることはありません。過去には日の本六十余州、クライアントからの要請とその報酬により、どこにでも専門スタッフを派遣し、顧客満足と報酬を得ることが任務です。
2つの勢力が小競り合いをお越し、その両方から、密偵、戦忍びの要請が来たとしても、伊賀の旦那衆は報酬の如何によりその業務委託を引き受けるかどうかを決定しますが、どちらにつくかについて、もし不利益をこうむらなければ、双方に技術者を派遣することも可能です。
伊賀侍にとっては、忠義に固執し、飯が食えない誇りというものにしがみついて生きる武士の生き様は滑稽です。このようなことに執着すれば伊賀の忍びとしては人に出し抜かれてみじめな最後を遂げることになります。
まとめ
本日は、「伊勢三郎義盛百首」から「偽り」に関する歌を抜粋し解説しました。伊賀の忍びの技、その本質は、「人を欺くこと」、これにつきます。そのための技術体系です。
人の弱みに付け込む、人に取り入る、懐に潜り込む、欺瞞する、これこそ忍びがもっとも身に付けなければならない素養です。そしてそのためには人をよく観察し、人を懐かせ、人を信じず人を信用させる、人を懐柔し、丸め込む、このような具体的な技術が重要です。
忍術書に記載されている忍び道具や情報伝達の技術は、すでに500年陳腐化しており、現代では全く使い物にならない無用の長物です。
ですが、いくつかの「人を欺く」心得について、伊賀の忍びはこれをよく観察し、秘伝として残しています。そしてこれらは現代の伊賀の人間にもよく受け継がれています。これこそ現代の我々が忍術伝書から参照し大いに活用するべき内容であると考えます。