本日は忍術の歴史について伊賀地域の歴史を交え解説します。
忍術の歴史
忍術の歴史について以下に概説を説明します。
古代
志能便という情報収集員が存在したと言われているが具体的な内容について文献がないため実在はわからない。
中世~戦国
古代以来伊賀国は、東大寺、興福寺を代表とする大伽藍の荘園が存在し、地理的に中央に近いにもかかわらず、中央政権の権力が及びにくい地域であった。中世後期になり、大寺院の勢力が衰えた際、荘園の荘官、下司等は寺社勢力をはねのけ、独立を画策した。伊賀では中央政権に反旗を翻す悪党が跋扈していた。
伊賀国は、戦国時代には他国の戦国大名、国司の干渉を受けつつも、独立した地域として、戦国時代を迎えた。室町時代を通して、伊賀には、守護が置かれたものの、守護の影響力は弱く、地域の土豪衆が重量な要件について衆議にて取り決めを行うという合議制の統治が行われいた。
伊賀国内に統一政権が存在しないということは、各地域の土豪が一国一城の主であり、自家の田畑を自己の武力で保全する必要に迫られ、各集落の土豪たちは、居館に土塁、堀を張り巡らし城塞化するか、守りやすく見晴らしの効く丘陵地の丘端に詰めの砦を構築した。
伊賀には900を超える中世城館があるとされ、これは日本一の密度であるという。土豪たちは己の利権を保持するため、または隣接する土豪の土地利権を簒奪するために猛烈な小競り合いを行ったことが想像される。
小競り合いを有利に進めるためには、謀略を駆使し、敵対する土豪の屋敷陣地に侵入する技術、またはそれらを撃退する技術が必須であり、発展していったと考えられる。土豪たちの中には、それら小競り合いで培われた技術を自家の下人に修練させ、彼らを他国の戦場へ売りに出す者が現れる。
鈎の陣
室町将軍足利義尚が南近江の守護大名六角高頼を親征した「鈎の陣」では甲賀衆が足利義尚の陣地に奇襲をかけたという記録がみられる。これにより、伊賀衆、甲賀衆が夜襲や奇襲攻撃、陣攻めを得意とすることが全国に知られることとなった。
天正伊賀の乱
天正伊賀乱では、織田信長による攻撃により伊賀一国は大打撃を受け、同豪衆の中には他国へ落ち延びた者もおり、生き残った者の中には戦乱が終息したのち、伊賀へ戻り帰農した者もいたと考えられる。
徳川家康の伊賀越えに随行した伊賀者の中にはそのまま徳川家に召し抱えられ、間諜の仕事をした者もいたであろう。服部半蔵旗下の伊賀同心と呼ばれたものも含まれる。
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江戸時代
戦国時代が終わると、伊賀地域は、藤堂藩のもとで伊賀出身の藤堂采女の支配下に入り、土豪は無足人として登録された。伊賀の忍びの術は、戦国時代が終わって100年経ったころには、忍術はすでに技術的な体を成していなかったと推測される。そのころ、藤林左武次保武が、万川集海を執筆した。
江戸に下り、門番となった者、他国の諸侯に雇われたものがいたとされる。そこで伊賀の忍術が他国へと拡散され忍術使いが伊賀者と呼ばれる下地となった。
幕末
相模国浦賀沖に来航したペリー艦隊に対し、藩主の藤堂高猷は、澤村保祐に探索を行う様、命を下す。澤村保祐は艦に接続し、乗組員からパン2個、煙草2葉、蝋燭2本、書類2通を貰い帰還した。これを藤堂高猷に報告したという記録が残る。
幕末期には無足人は、藤堂藩の戦力として召集され、戊申戦争に従軍したが、忍術的技術を使用したという記録は見られない。
以下は上野城代家老藤堂采女家の在地家臣「万雑公事」に関する記述
藤堂藩山崎戦争始末 / 伊賀古文献刊行会 より引用
明治以降
無足人として登録された伊賀の土豪は、多くが士族として登録され、引き続き、各集落の地主、資産家、指導者として、勢力を保持した。第二次世界大戦後にGHQによって実施された農地解放により、生活の基盤であった耕作地を小作人に開放したため、多くが経済基盤を失い没落した。
天正伊賀乱での信長侵攻にあわせて作られた山城の多くが、縄張りを放棄しているのに対し、伊賀では現在も構えを残している中世城館が少なくない。これは、江戸時代、更には第2次大戦終了まで、地域の旦那衆は、小作人からの一揆や打ち壊しから身を守る上で近代まで土塁や空堀を放棄することができなかったことを物語っている。