本日は伊賀衆の戦への参加について解説します。
伊賀衆の活躍時期
伊賀衆という名称が記載に見らるのは、応仁、文明期からとなります。当時は、応仁の乱期にあたり、京都の市中が細川勝元率いる東軍と山名宗全が率いる西軍に分かれ、日本全国が、足利将軍家を含んだ足利一門、または各地に領国を持つ守護大名の謀略と勢力争いにより混乱を極めていました。
伊賀衆の合戦参加の事例
伊賀衆の活躍は、応仁、文明期(1467―1477)ごろに現れ始めます。
文明2年(1470)、応仁の乱の畠山勢に加勢し、紀州の根来寺まで出陣したのをはじめ、同17年(1485)には、山城国南部の御厨子城にて伊賀衆が畠山勢として籠城したとの記録があります。
元亀4年(1573)には織田信長の家臣柴田勝家らに従い、近江国の戦国大名浅井氏の居城を攻めたとの記録もあり、伊賀衆は周辺各地の大名に従軍し山城国、大和国、近江国、紀伊国へ出征していたことが伺えます。
天文10年(1541)には山城国笠置城の合戦の記録に、「今朝伊賀衆笠置城忍ヒ入テ少々坊舎放火」とあり、伊賀衆の得意戦術が記載されています。伊賀衆が坊舎(僧侶の生活の宿坊)を焼き払ったことが記されており、伊賀衆が火付け、放火に長じていたことがうかがえます。
天正8年(1580)には大和国五條の城を攻撃した際に、「夜中に伊賀衆忍び入候処、南より水堀を越え」とあり、城攻めが得意であったことが伺えます。
さらに天正10年(1582)、織田信雄に従軍した家臣小川新九郎の記録によれば、「内々伊賀の者ハ、しのひ(忍)夜うち(夜討ち)上手ニ候へは」とあり、この記述から、戦国時代の終わりごろには、夜襲や密かに侵入することが伊賀衆の得意な戦法として広く知れ渡っていたことが伺えます。
六角義賢が織田信長に攻められ、石部城や鯰江城に立てこもった際には、伊賀衆は甲賀衆とともに六角方として織田勢と戦ったという記録が見られます。
伊賀衆は南近江の六角家だけでなく、北近江に勢力を張っていた浅井長政方について戦役に参加しています。浅井勢が六角方の太尾城を攻撃する際には、浅井は伊賀衆を雇い入れ、城中に忍び入り放火させ、それを合図に総攻撃をかけるという作戦を遂行しています。
また柴田勝家と木下秀吉が小谷城を攻めた際には、伊賀衆を動員していたことが記録にあります。
松永久秀の敵方には、伊賀衆がふくまれていました。伊賀衆は後北条家の記録にも出てくるため、畿内に限らず日本全国の戦場で城取り、放火、砲兵として重宝がられたことがうかがえます。
また信長の長島攻めの際には伊賀衆は得意の火縄銃を猛射し、信長勢を苦しめています。
楯岡の伊賀崎道順は、六角義賢に仕えていたころ、義賢の配下だった百々氏(どどし)が謀反を起こした際、百々氏の居城、沢山城に忍び込み、城に火をかけ、城内を大混乱させ、城を落とし、手柄を立てたといわれ、難攻不落の城も「佐和山や百々ときこゆる雷も 伊賀崎入れば落ちにけるかな」と詠われたほどの名人でした。
伊賀衆の地位
伊賀衆は、北部で南近江の六角家、南部では伊勢国司北畠家と主従関係を結んでいた者もいたと思われますが、基本的には、土豪それぞれが一国一城の主であり、一土豪あたりの支配する地域も狭く、また支配下の下人の数も限られるため、官位は低く、忍び入り、放火等、武士の本望とする敵陣に一番乗りし、兜首を取るという任務ではないため、具体的な人名、手柄は出てきません。
古文献に載っていることが少ないため、検証することは難しいですが、歴史は文献に文字として記載されたことが事実とは限らず、また文献に記載されていることだけが起こっていたとは言えません。ですから、当時の状況というのは、推測が含まれることもやむを得ないと思われます。
伊賀衆の合戦での活躍についてのまとめ
歴史文献に出てくる伊賀衆の記述については多くはありませんが、当時の豪族衆とその下人たちは畿内および畿内近辺で相当活発な活動をしていたことが伺えます。
特に織田信長が畿内を制圧するまでの戦国前期には、畿内や畿内周辺での小競り合いが多発しており、伊賀は近江、大和、山城、伊勢に囲まれた地理的要因の為、徒歩でも一日で現場に駆けつけることができる地理的優位性、どの勢力権にも属せず、兵力拠出の要請があればどの勢力への出征できる独立性故、活躍の場は多くあったと推測されます。
- 合戦への兵力の供給方法
- 出征者の具体的な人名
- 現場での具体的任務
- どのようなルートで伊賀の土豪に兵の調達依頼があったのか
- 伊賀の土豪は各々が独立して兵力を拠出したか、とりまとめ役がいたのか、
- 伊賀から他国に対し、傭兵稼業の宣伝と営業活動を主体的に行っていたのかどうか
- 出征する兵力はどのように要請したのか。一族か、郎党か、下人か、小作人の活用か
については、今後詳しく調査を進めていく予定です。