本日も忍術の心得が詰まっている「伊勢三郎義盛百首」という歌集の中にある歌について、いくつか解説をしたいと思います。
今回は伊勢三郎義盛忍び歌百首の中から「痕跡」に関する1首について説明します。
人をしり 我れをしられぬ しわざこそ しのびのものの 巧者とはいへ
現代語訳:人の情報を知り、自分を知られないことこそ、忍びのものの、巧者といえるのだ。
解説:敵情を知ることはとても重要ですが、忍びの巧者は、相手に自分を知られることはありません。自分の存在そのもの、または自分が密偵であること、密偵に潜入されたことが、全く相手に知られないことこそが忍びの名人のやることです。
全く証拠を残さずに、重要な文書のコピーを取られていること、サーバーにアクセスがなされた事、潜入されていること、内部に敵方に情報を送信する者がいること、等をまったく気づきもさせないこと、これが重要な事項です。
よって、「忍者をやっている」とか、「自分は情報収集が任務である」ということを自称するあほはいません。捕縛されてしまったものは、記録に名前が残ってしまったりしますが、本物の巧者とは、情報収集、諜報活動を担当していたことを家族すら知らないものです。
自分を知られないものは巧者です。忍びの仕事は情報収集。情報収集は一般紙の新聞記事のスクラップを始め、SNSやニュース、電話の傍受、メールの閲覧、サーバーへのアクセスなども行います。
さらに生の情報を収集するには敵方の職員に変装するかそもそも正規の方法で敵方の職員や構成員となり、内部情報に堂々とアクセスし、痕跡なくそれらを盗み出します。
メールの送受信やサーバーへのアクセスやデータのダウンロードはログが残ります。よってこれらを行う場合には慎重になる必要があります。電子データの情報を収集する場合には画面を撮影するなどの方法がとられることが多いと聞きます。
また自分を知られないこと、については家族、近親者ですら本当の名前、出身地を知らない状況を作る、そして一つの形を作りそれを演じ続けただひたすら情報収集に打ち込む姿こそ伊賀の忍びです。
結婚した配偶者が死んで、その後に事情を知らさせるまで密偵であるとは全く気が付かなかった、または一切誰にも気づかれずに歴史の中に埋もれる、これこそが巧者の仕事です。
現代社会では諜報技術が発達するとともに防諜技術も鼬ごっこで発達しています。機密漏えい対策は、企業、国家、軍、等様々な機関が対応をしていますが、その中で忍びはその先を行く情報技術を取り入れ、技術を磨き、その先を進まなければなりません。
まさに匂いもなく、音もなく、影も形も無い。いることさえ誰も思い出せない。そのような忍びは本当の達人と言えるでしょう。
まとめ
本日は、「伊勢三郎義盛百首」から「痕跡」に関する歌を抜粋し解説しました。忍びは忍び込んだあとにも痕跡を残さないことが重要です。
痕跡といえば足跡、指紋、落とし物、防犯カメラに映った姿だけではありません。忍びとして最もやってはいけない痕跡とは、名前をさらけ出されることや歴史に名を連ねることです。
戦国時代、戦忍びで手柄を上げた忍びには伊賀で名が売れてしまい後世の忍術書の中に名前が記載されてしまった者もいます。これは絶対に避けなければならないものです。忍びは人間の世界の闇の中で、誰にも気づかれず、情報を収集したりする者たちのことを言います。
第二次世界大戦での陸軍中野学校の卒業生には偽りの名前でパスポートを受領し、戦地での情報収集を行っていた人物もいたことでしょう。彼らは家族にも、自身がどのような仕事をしているのか知られない状態で秘密工作を行っていました。
中には秘密工作が失敗し、敵に見つかり拷問をかけられた上になぶり殺しに逢った人間もいたでしょうが、その時にも本来の名前を出さずに歴史から消えていった人間もいたでしょう。これぞ本当の忍びの姿です。
ですからまず、黒ずくめの忍者服を着ている忍者は一発失格です。そして現代において「ござる」という言葉を使ったりしているのはその次のアウト。そして手裏剣と500年ほど時代遅れの通信技術をひけらかす輩。これもダメダメです。
痕跡がないことが忍者の誇り。痕跡があるのは忍者の恥です。名前が売れたら忍者は終わりです。現代に「忍者」を語る輩には忍びを志す人を誤った方向にもっていこうとする者もいます。それは忍びのなりそこないの情けない姿です。そのような忍びには少なくとも伊賀の人間は誰も相手はしないでしょう。
痕跡も臭いも、音も、姿も形もなく、誰にも気づかれない、姿形はあるのに、誰もそれを思い出すことができない、それが本物の忍びの姿です。
痕跡を残さず、忍びこまれた側は忍び込まれて情報が継続的に流出していることに全く気付いていない、そういう状況を作ることが忍びの重要な任務です。