スイスと言えば永世中立国です。同時に国民皆兵の重武装ハリネズミ国家と言われています。スイスと伊賀国には地理的、歴史的にいくつかの共通点があります。今日はスイスと伊賀国の共通点について解説します。
スイス連邦と伊賀国の共通点
スイス連邦と伊賀国の共通点を以下に説明します。
四方を峻険な山々に囲まれている
スイスと伊賀は地理的に四方を山々に囲まれています。スイスでは北側に地理的な広がりを見せており、人口の70%はドイツ系。南面は険阻なアルプス山脈が立ちはだかっています。アルプス山脈の山中が南のラテン系文化圏と北や東のドイツ民族の文化圏の境界線です。北側はバイエルン王国との方言連続体を形成します。
伊賀国は東側から南側にかけて、特に険しい山地が形成されており、東の布引山地は伊勢湾へ下る水系と、大阪湾へ下る淀川水系の分水嶺です。要所要所にある峠を抑えてしまえば、他国からの勢力の侵入を抑えることができ、防衛としては有利な地形となっています。
伊賀国の西側は大和高原、笠置山地で険しい山々はありませんが複雑な地形の丘陵地帯が柳生を超えて奈良の若草山まで続きます。伊賀国の北側は信楽を含む甲賀郡です。
伊賀の文化や方言は京都や奈良から連なる畿内文化の最東端です。
重武装
スイスでは冷戦のころは、各自がシェルターを用意しており、国民皆兵として有事の際には国民全員が何らかの形で防衛に参加するということになっていました。スイスでは要害の地には現在も要塞が設置されており、戦闘機は山肌をくりぬいたシェルターに格納され、そこから延びる高速道路からの離発着を可能としています。
戦国期の伊賀においても伊賀惣国一揆という連合が組織されており、他国からの軍勢の侵入に対し、連体的な防衛体制を敷くことが一応は取り決められていました。(僻みと僻みが折り重なって出来上がった伊賀根性でこれがどこまで機能したかはわかりません。)
伊賀の中世城館密集率は日本で有数です。苗字を名乗り武装し、郎党を率いた半農半武の一党が村に数件、多いところでは十数件、それぞれの居館には土塁、逆茂木、堀を設けて居宅を要塞化していました。天正期にはさらに、丘端部には見張櫓を備えた詰めの砦、村共用詰め城を構築し、街道を挟み撃ちにできるように砦を配置したり様々な工夫で自衛を行っています。
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周囲を列国に囲まれている
スイスは、周囲をバイエルン王国、オーストリア帝国、イタリア諸国、フランスという列国に囲まれており、ウェストファリア条約(ヴェストファーレン)において、スイスは独立を承認されています。
私の推測ですが、ドイツ諸侯、オーストリア、フランス、イタリア諸国それぞれについて、かれらの領地が直接接することは望ましくないという判断が行われ、スイスの独立が調整されたと考えられます。スイスを独立地域とすることにより、これら列国の交差点となるべき部分に緩衝地帯を作ることができます。
伊賀も同様に、東には伊勢国司の北畠氏が、北には南近江守護の六角氏が、西には大和国の守護の興福寺が、そして山城国は室町将軍のおひざ元であり列国に囲まれており、戦国期には六角氏、北畠氏が一部の伊賀土豪に影響力を及ぼすも、紀伊半島の中央地位に、どの勢力にも属さない中立地帯が存在していました。
有力諸侯がいない
スイスと伊賀の共通点の一つに、地域を一つにまとめる有力諸侯がないという点があげられます。スイスは長らく住民の直接民主制が残った地域です。現在も国政を左右する意思決定は住民投票によって決められます。
伊賀の場合、足利一門の仁木氏が幕府から守護に任命されていた時期もありましたが、伊賀土豪を制することはできていなかったようで、伊賀土豪衆は独自の動きを見せています。足利一門の仁木某は伊賀土豪衆に屋敷を焼き討ちされたと記録は残しています。
耕作面積が少なく大規模農業に適していない
伊賀、スイスの特徴として、土地が山がちで効率的な農業に適していない土地柄があげられます。
傭兵を輩出
耕作に適さない土地柄、近隣列国同士の戦乱による傭兵の需要から、スイス、伊賀ともにスイス傭兵、伊賀の戦忍びを他国に送り出しています。スイス人傭兵は今日でもバチカンで採用されており、戦国期には、「伊賀衆」が多くの畿内の合戦に「城取り」「警護」役で駆け付け戦果に貢献しています。
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まとめ
今回は、スイス連邦と伊賀国の共通点に着目し解説をしました。スイスには精密機器産業があり、伊賀には他国に類をみない「伊賀根性」という名のすばらしい名物があります。
日本とヨーロッパという異なる地域ですから、そこまでの共通性はないと思いますが、厳しい気候と峻険な地形に囲まれた中で育まれた、なにか別の共通性を見つけることができればと思います。